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2013/03/27

名所江戸百景 考察


名所江戸百景の個別の作品についてまとめ始めたら、そもそも「名所江戸百景」がどういう作品なのか、その全体像をあまり把握していないことに気づいた。
これではマズいということで、改めて名所江戸百景どのような作品なのかについて調べてみた。

※(追記)読み返してみたら「考察」成分がほとんどなかった・・・。

「名所江戸百景」は歌川広重によって制作された連作浮世絵名所絵である。
と、某Web百科事典にはあった。
大体のことはそちらを参照して頂ければ十分なので、ここではその補足的な内容を添えて記述しようと思う。

歌川広重と言えば、言わずと知れた江戸時代を代表する浮世絵画家である。
彼の代表作と言えば、これまた言わずと知れた「東海道五十三次」であり、この作品を期に彼の名は日本中に広まることとなった。

そんな広重の晩年の作が「名所江戸百景」である。
名所江戸百景は、安政3年(1856年)から安政5年(1858年)にかけて制作された作品で、118枚の絵から成る。あれ?100景じゃないの?
(119枚目の絵として「赤坂桐畑雨中夕けい」が存在するが、二代広重の落款が押されており、シリーズには含めないのが通例となっている。)

118景の作品は、春夏秋冬4つの季節毎に分けられており、春には梅が、冬には雪が、江戸の風景に季節感を添えている。

しかし、晩年の策であるが故、すべての作品を生前に書ききることが出来ず、一部の作品は二代広重(歌川重宣)の手が加えられている。改印が安政6年4月となっている、
12.「上野山した」
41.「市ヶ谷八幡」
115.「びくにはし雪中」
がそれにあたるとされている(広重は安政5年9月に死去)。

広重の死後、1870年頃からは、フランスを中心に「ジャポニスム」と呼ばれる日本を趣味とする風潮がヨーロッパで広まり始めた。
とりわけ広重の作品は、日本の浮世絵を代表する作品として認知されており、多くの画家が名所江戸百景に興味を持っていたようである。
有名どころでは、ポスト印象派のフィンセント・ファン・ゴッホが、「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している。
わざわざ半透明の紙に油絵でトレースする熱の入れようで、その後のゴッホ作品における「輪郭を強調する」作風に強い影響を与えたとされる。

わずか3年弱に100余枚という速いペースで版画を出版していくことがどれだけ大変か計り知れない。
その背景には、町民の絶大なる支持があったことには間違いない。
その一つの理由として、この作品が安政2年(1855年)に起こった安政の大地震(安政江戸地震)からの復興の意味を持っているということが挙げられる。
この地震では、江戸だけで死傷者1万人以上という大きな被害を受けた。
多くの建物が倒壊し、その中にはこれまで江戸で名所とされていた場所も含まれていただろう。
その大地震の翌年、まだ再建が終わっていない土地も多く残っていたと考えられる。
そのため、これまでの名所絵にはほとんど登場しなかったような場所が、新たな江戸の名所として取り上げられているのがこの作品の特徴でもある。
実際、これまで名所として登場することの無かった場所が50点近くあるとされている。
また、再建が終わった直後の様子を切り取った作品も散見される。
このように、広重はシリーズを通して、これからの江戸の復興の想いを絵に込めたのであろう。

そう考えると、広重の驚異の出版ペースも納得できる。
まだ絵が描けるうちに江戸と江戸町民に活気を与えよう、そう躍起になっていた熱意の現れこの作品を特別な作品へと仕立て上げているのではないだろうか。

2013/03/13

名所江戸百景:柳しま -流行の移り変わり-


名所江戸百景 第32景 柳しま 1857年(安政4年4月)(ブルックリン美術館所蔵)
今回も、名所江戸百景より、「柳しま」を紹介したい。

■作品概形
「柳しま」は墨田区にある北十間川と横十間川の交点を描いた作品である。

北十間川は絵を左右に横切るように描かれており、東(絵では右)に辿ると中川(現在は旧中川)に流れ着く。西(絵では左)に辿ると源森川を経由して隅田川まで行くことができるが、当時は隅田川の氾濫が多かったとこもあり、源森川と北十間川の間には堤が築かれていた。これが「小梅堤」だったりする。
横十間川は大横川に通じる水路で、どちらも舟運において重要な役割を担っていた水路だったことが絵からもわかる。

ちなみに川幅が十間(18m)であったことから、北十間川・横十間川という名前がついている。北十間川は本所の北側を流れ、江戸切絵図の北端でもあった。横十間川は江戸城に対して横向きに流れているためその名がついている。

絵の右端には、柳島橋が描かれており、その袂には、二つの建物がある。
道を挟んで手前にあるのは「法性寺(ほっしょうじ)」。江戸切絵図を見ると、横に「妙見」と添え書きされている。
法性寺の本尊は「北辰妙見大菩薩」であり、「柳嶋の妙見さま」として有名であった。
特に芸能や芸術に従事する人の信仰が厚かったようで、市川左団次(明治座の初代座元)や中村仲蔵(古典落語「中村仲蔵」の元ネタにもなった役者)などが開運したという話がある。
中でも、葛飾北斎が信仰していたことで知られ、彼が当初「北斎辰政(ときまさ)」と名乗っていたのは、北辰妙見信仰によるものと言われている。

柳島橋の袂、道を挟んで奥にあるのは「橋本」という高級料亭である。
橋本は若鮎が有名な料亭で、この「柳しま」が春の部に入れられているのは、若鮎が春の季語であるからという説もある。
橋本は「橋本又兵衛」という正式名称?だったため、柳島橋は「又兵衛橋」と呼ばれて親しまれていたという話もある。

絵の奥には、筑波山が描かれている。
実際の位置はより東側(画面右)なのだが、広重の構図センス的にはこの位置がベストという判断だったのだろう。
田園風景の中にそびえる筑波山の出で立ちは、なかなか迫力があるものである。

■現在の「柳しま」
この絵が描かれた辺りには「向島」「京島」など、「島」とつく地名が点在する。
この辺りは河川の氾濫に悩まされた土地だった。その中でも比較的常時水に浸からない土地には人が住居を構えるようになり、「〜島」という集落となった。
柳島もそんな集落の一つであったが、1930年から31年にかけての本所区の再編により、行政町名としての「柳島」は消えてしまった。

そもそもこの辺りの風景は関東大震災を期に大きく変わってしまった。
芥川龍之介が昭和2年に出版した「本所両国」という著書の「柳島」という章には次のような記述がある。
名高い柳島の「橋本」も今は食堂に変つてゐる。もこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども硝子へ緑いろに「食堂」と書いた軒燈は少くとも僕にははかなかつた。
少なくとも大正から昭和に変わる頃には、栄華を極めた料亭の姿は無かったようだ。


もう一つの観光スポット法性寺についても、現在はコンクリートに囲まれた状態となっている。
この地域は戦後、住宅の延焼が危惧されたため、広域避難地域として区画整理されることとなった。
住民の移住が求められたが、地元を離れたくない住民が多くいたため、法性寺の敷地内にマンションを建設し、コンクリートで囲むことで、燃えにくい住居を確保したという経緯があったためである。

北辰妙見についても、お堂の中に安置されており、法性寺は非常に近代的な印象を受ける寺となっている。
境内には北斎関連の資料がいくつか置かれており、寺を挙げて北斎を推している様子が窺える。




広重が絵を描いた地点の辺りの現在の様子。
川の左にある木が生えているあたりが法性寺、水色の橋の奥に隠れているのが現在の柳島橋である。
俯瞰から風景を描くという広重版画の特徴が如実に表れていることがわかる。

現在ではこの一帯は住宅街や団地となっており、参拝や食事目当てで訪れる人はほとんどいない。
むしろ近くのオリンピック(スーパー)を利用する車と人の往来が多く、一定の賑わいを見せている。
また、柳島橋の少し西、十間橋は北十間橋の水面にスカイツリーが映る「逆さスカイツリー」の名所として、プチブーム到来中である。

流行り廃りは移り変わるもの。とはいえ、流行の遷移をこんなに近くで感じることになるとは、妙見様も100年前には思わなかっただろう。



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