気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
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2014/12/21

秩父札所マップ



秩父巡礼記事を執筆途中であるが、まとめがてら地図を作ってみた。
とりあえず札所の位置をマッピングしてみた。
ルート情報や道標など、徐々にコンテンツを増やしていけたらいいなあ。

更新履歴
2014/12/27 札所の位置をプロット。

2014/12/20

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day2の① 〜平地をさくさく進んでく〜



秩父古道巡礼2日目。
天候にも恵まれ非常に清々しいスタートを切ることが出来た。
まずは前回の最終ポイントを目指すべく、西武鉄道横瀬駅から歩き始めた。途中この後訪問することになる9番寺を横目に見つつ、20分程で7番寺に到着した。
ここが本日のスタート。秩父のシンボル武甲山を眺めながら、準備運動を済ませると、早速8番寺へと足を進めていった。

国道から一本はずれた道を歩く。この道は6番札所が現在の位置に移転する(宝暦10年)以前の巡礼古道のようだ。
この「寺久保地蔵尊」は、寛延2年(1749年)の建立。寛政2年(1790年)に立てられた巳待塔碑と南無阿弥陀仏碑が両脇に添えられている。これらの碑は天明3年(1783年)に起こった浅間山の大噴火ならびに天明の大飢饉による苦しみからの解放を祈願したものとのこと。
国道とスイングバイしながら歩いていくと、6番から9番へ向かう巡礼道と合流した。
「けんむし坂」と呼ばれる坂の麓には馬頭観世音が祀られていた。天正18年(1590年)の鉢形城(大里郡寄居町)落城に伴い、その知らせをこの近くの根古屋城に伝達する使者が、この坂で巨大な毛虫に遭遇し、退治したという伝説がある。また、根古屋城城主が「渡辺監物(わたなべけんもつ)」であることから「けんもつ」が訛って呼ばれたという説もある。
坂を上りきると、武甲山御岳神社の標柱が姿を現す。武甲山周辺にあった複数の神社を統括したものらしく、大本はもちろん武甲山にある。その里宮が麓のこの場所にある。
境内にある「城谷沢の井」は深さ4mで今でも水をたたえている。かつて秩父絹(根古屋絹)と呼ばれる無地絹物の染色に使用されたという。


札所八番・西善寺に到着。
末広がりの八ということで札所の中でも重宝されており、「吾野通り」と呼ばれる街道を使った巡礼ではここを最初に訪れ、「逆打ち」で1番札所へ向かうコースもあった。

西善寺の象徴である樹齢600年の「コミネモミジ」。
驚く程大きい。シーズンになるとこんな閑静な寺に大量の観光客が押し寄せてくるという。
(参考:西善寺 ブログで寺の関係者の本音が語られていて、こちらも風情があって?面白い。)

9番寺までは横瀬駅に戻るように西武鉄道の線路沿いの道を歩いていく。道中には道標石が2個並んでいるものがあった。それぞれ「みぎ九番」「みぎ九番道」と刻印が違うのだが、どちらにも心求・はまの名が刻まれている(どうやら2人以外に連名している施主の名前が異なる?)。



そんなこんなで、本日2度目の9番札所・明智寺に到着。
こじんまりとしたお寺で、時間の問題か参拝客もほとんどいなかった。
安産祈願の9番寺として知られており、1/16・8/16の「九番の観音様縁日」には多く参拝客が訪れるという。

まだまだ行こう、いざ10番。
国道に一度出て、兎沢橋を渡りきる前に階段を下りるのが正規ルート。馬頭観音と道標石がちょっとした目印になっており、ここから細い道を進んでいく。
ちなみに道標石の脇に、かつての巡礼道にあたる「申橋」という名の小さい橋が残されている。また、細い道は「申坂」と呼ばれる緩やかな坂になっている。


坂を上りきると道標石。「右志かう道 中十番道 左大宮」と書かれている。「志かう」は埼玉県ときがわ町にある、坂東三十三箇所観音に数えられている「慈光寺」のことのようで、方向的には確かに合っているが相当距離がある。一方の「大宮」は現在の秩父市(江戸期には大宮郷)あるいは秩父神社(通称大宮)を指すのだろう。


山門前の石段を上ると、札所十番・大慈寺の観音堂に到着。
裏側は小高い山になっていて、かつての観音堂はその山頂付近にあったという。そして、その山がこれから私の行く手を阻むことになるのだが、長くなってしまったのでここで一区切り。

2014/12/15

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day1の② 〜締切早し急げよ男子〜


一番札所・四萬部寺で御朱印帳を購入。そそくさと二番を目指して進みます。

四萬部寺の周りには「心求・はまの道標石」が点在している。
元禄15年(1702年)〜永保2年(1705年)にかけて設置されており、現在でも江戸古道を辿る際の道標となっている。






四萬部寺からの二番札所に向かう道は、しばし民家の脇道のような狭い道を進む。道中、「如意輪観音堂」は地元で安産信仰の対象として祀られているようだ。すぐ脇には心求・はまの道標石があった。





県道11号を横切ると狭い道が続いている。車がすれ違えないのではないかというくらいの生活道だ。先に行くにつれ、民家も疎らになってきた。そんな折に現れたのがこの看板だ。巡礼には試練が付き物なのだ。ここからは舗装路だが山道となる。


かなりの急坂で途中休憩を何度も挟んだ。途中、坂を下ってくる巡礼者とすれ違ったが、下ってくる方もなかなかしんどそうだった。
年期の入った馬頭観世音と林道開墾記念碑?が、この道の険しさを物語っている。



坂を上りきると、二番札所「真福寺」に到着。
思ったより参拝客が多くいたけど、ほとんどが車での訪問のようだった。

真福寺は秩父札所が33カ所から34カ所に増やされたときに、札所として追加されたお寺。こじんまりとしたお寺で、常駐している住職もいないので、納経は山を下った麓の「光明寺」で行っている。

小休止の後、納経所に向かうため下山を始めた。
しばらくは山中のつづら折りの車道をひたすら下っていく。10分くらいすると、車道から未舗装の山道に分岐するルートが現れる。わずかな区間だが鬱蒼とした木々の隙間を縫うように山を下ることになる。


山道の途中にある「岩棚金木犀」。埼玉県指定の天然記念物だが、訪問した9月にはキンモクセイらしさは全く感じられないただの「木」だった。この碑も山を下ることに必死になっている状況だと見逃しそうなくらい、薮に紛れていた。今でも時期になれば、あの芳醇な香りを楽しませてくれるのだろうか。




山を下りきると二番札所の納経所「光明寺」。
金剛力士像が行く手を阻む。
真福寺のこじんまりとした様子とは一転、豪勢な造りのお寺で納経を済ませた。



ここからは次の札所までの間隔も短く、それほどアップダウンも激しくないので非常に歩きやすい道が続いている。次の三番札所へは道標石が案内してくれる。




およそ15分で三番札所「常泉寺」に到着。
観音堂の木彫りの龍は「かご彫り」と呼ばれる技法で彫られており、元々秩父神社の薬師堂だったものを移築したものだという。
境内には蓮が浮かぶ沼があり、非常に落ち着いた雰囲気の場所であった。

どんどん先に進んでいく。
歩きやすい区間のためか、巡礼着を身につけた参拝客も多く見受けられた。
皆カメラを片手に草花や田園風景を撮影していた。
四番札所「金昌寺」は、山門に飾られた二足の「わらじ」が存在感を放っていた。
山門に佇む仁王像が健脚の神として崇められたことから、このお寺にはわらじが多く奉納されるようになったようだ。
石仏の寺として有名なこのお寺には1300体ほどの石仏が奉られている。
(ただし何故か写真は残っていなかった。疲れていたからなのだろうか。残念。)

次の5番まではほぼ一本道。
特に迷うこともなさそうだが、心求・はまの道標石は多数発見できた。




五番札所「語歌堂」は、開けた場所にあった。聖徳太子の化身が訪ねてきて、和歌について談義したことから「語歌堂」と名がついたという。
本尊が「准胝観世音菩薩(じゅんていかんぜのんぼさつ)」というあまり耳馴染みの無い菩薩様だそう。(日本百番観音霊場の中でも2カ所しかない。)
この札所も納経所は別の場所にあるので、納経所の「長興寺」へ。
住職曰く、6番方面に向かうと時間的に8番が回れない(17時で納経終了)ので、10番方面に向かって秩父駅から帰る方がおすすめとのこと。
しかし、江戸巡礼古道を辿ることを決めていた私は、とりあえず行ける所まで行ってみることにした。
民家の脇を進んでいくと、小川に突き当たる。
道標石の脇には「徒歩道(車不通)」の文字が。
進んでいくと、川沿いに薄暗い未舗装道が伸びていた。
通称「よこっぴき」と呼ばれるこの道は、崖を削られて作られている道で、古道の雰囲気を残した区間となっている。ただ夕方に歩くにはちょっと怖い。

よこっぴきを抜けたあと、少し道を外れて「寺坂棚田」へ足を伸ばしてみた。
埼玉県内最大の棚田で、歴史を辿ると縄文時代までさかのぼるというこの棚田。9月末には彼岸花が見頃になるという。丁度稲刈り直前だったので、黄金色に光る棚田がなかなか幻想的だった。

六番札所「卜雲寺」は、かつて棚田近くの小高い土地に位置していたが、宝暦10年(1760年)に移転。古道をそのまま進んでいくと先に7番札所に到達してしまう。
順打ちで巡りたいため、7番札所手前で6番に向かうルートを辿ることにした。
卜雲寺本尊の「聖観世音」は、元々武甲山山頂に奉られていたものを移してきたものだろいう。山岳信仰を物語るかのように、境内からは武甲山がよく見える。
時間が迫る中、七番札所「法長寺」へ急ぎ、ギリギリで到着。
本堂が秩父札所内で最も大きく、平賀源内が原図を担ったという。

ここから八番札所までは30分程かかるため、本日はここで終了。最寄りの横瀬駅まで疲労困憊した体と足を労りながら帰路についた。
せっかくなので、一度西武秩父駅に立寄り、秩父名物「わらじカツ丼」をいただいた。
甘い味付けの豚肉が疲れた体に染み渡る一品だった。


2014/10/15

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day1の① 〜1番はまだですか?〜



今回の巡礼は、江戸から秩父に向かう古道を辿ることにした。
さすがに江戸からスタートするのはしんどいので、秩父古道マップにある「小川町」から歩き始めるコースを利用した。
スタート地点である埼玉県秩父郡東秩父村の「落合橋」へは、小川町駅からバスを使って移動した。そこで降り立つと、冒頭の写真のような山間の集落が広がっている。

落合橋の南、県道11号線の道端には馬頭尊碑が鎮座していた(おそらく安政の馬頭尊。「屋漏の家」と書かれた看板の脇に地味に佇んでいるので見つけにくいかも)。
ここから槻川に沿って上流に歩き始めていく。



旧道は、一度槻川を南に渡って崖の脇の道をゆく。
崖に埋め込まれるように、いくつかの石碑が置かれていた。崖はいまにも崩れそうで、補強工事の真っ最中といった感じだった。


県道に沿って歩いていくと、公衆トイレと観光地図があった。ここから二本木峠・愛宕山に登るコースに入ることができるが、今回は別の道となる。




宝暦8年の六十六部塔と、六地蔵。







皆谷地蔵堂。
この脇に「右志ゆんれい道(右巡礼道)」の道標があるとのことだったが、写真を撮り忘れる…。ともかく江戸から来て最初の巡礼道の案内である。
また、橋場バス停留所もこちらなので、ここから歩き始めるのも良いかもしれない。

道標に従って右に折れ、結構な急坂を登る。
県道361号線をがんがん上る。
眼前が開けてくると、右側に上る山道に「皇鈴山CPへ 外秩父七峰縦走ハイキングコース」と書かれた案内板と、馬頭尊。
ここからしばし山道を行きます。

一度舗装路に合流し、再び山道へ。
思ったより道が荒れている。これまたそこそこ急な登りが続いて、息も切れてきた。
そんな折、半壊の地蔵のようなものに出会う。文政5年の馬頭観音で、「粥新田観音」と呼ばれるものらしい。


やっとこさ「粥新田峠」に到着。
この辺りは様々なハイキングコースの分岐点となっているので、人通りも(それなりに)多い。
車も何台か止まっており、山歩きの起点となっているようであった。

牧場の脇を通る。柵がもろいので、近づきすぎたら襲われそう…。怖かった。
がんがん下っていきます。
途中砂利道もあるので、思っているよりも疲れる。



巡礼道の道標の脇から、再度山道に入って下っていく。
ここからの道は、ぬかるんでいて滑りやすく、整備もあまりされていないので歩きにくい。
実際、水たまりに足をつっこんでしまい、1番に辿り着く前に満身創痍。




山を下り終えると、皆野町三沢の集落に出る。
「寺山子安観音」が迎えてくれた。





県道82号線を横断し、県道の一本西側の道が巡礼道のようだ。
この大きな石は、川越道と熊谷道の分岐に立てられた「広町の道標」らしい。きっと文字が刻まれていたのだろうが、目を凝らしても確認できなかった。


曽根坂一里塚。中央に立つ阿弥陀塔には、「みキハ大ミや(右は大宮(=秩父神社))」「ひだり志まんぶ(左四萬部)」と刻まれている。やっと1つ目の目的地である一番札所「四萬部寺」の名前が出てきた!
また、この塔は「心求・はま夫婦」によって作られたという。この人物は道中度々出てくる重要人物なので覚えておこう。




札所一番 四萬部寺に到着!!


 小坊主がお出迎えしてくれました。


今回のルートは、秩父観光ナビのちちぶおもてなしマップ「江戸巡礼古道編」の、「秩父札所に入るみち 東秩父〜札所1番」をトレースした。

この日はさらに先まで足を伸ばしたが、とりあえずここまで。

2014/09/24

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day0 〜思い立ったが吉日編〜



先日から秩父札所巡礼を行っている。
というのも、今年は12年に一度の午年総開帳の年なのだ。
(参考:秩父三十四観音霊場|秩父札所連合会公式サイト

札所巡礼といえば、有名なのは四国八十八カ所巡りだろうか。その秩父版は計三十四カ所の札所をめぐる巡礼となる。
近畿地方を中心とした「西国三十三カ所」、関東地方を中心とした「坂東三十三カ所」と合わせて、「日本百観音」の一角を担っている。

埼玉県の秩父地方を中心に、秩父市・横瀬町・皆野町・小鹿野町を巡る100km超の道のりとなる。札所間の間隔が大きい所では巡礼者の多くは車やバス、自転車なんかを使って移動することが多いが、私は発見してしまったのである。
「巡礼古道」なる古くからの道があることを。
(参考:江戸巡礼古道-散策・ハイキング-秩父観光なび-

普通の人がやらないことをやる。
そこに美学を感じてしまった私は、そそくさと準備を始めた。

今年いっぱいをかけて、全札所を巡礼古道を使って徒歩でめぐろう!まだ3ヶ月ちょっとある!と思い立ったのも束の間、午年総開帳は「11月18日」までと書いてあるではないか!

果たしてこのシリーズは、無事完結することができるのだろうか…。

世界の平和を祈願するため、私は秩父へと足を運ぶのであった。

2014/08/27

水戸街道のルート地図を作成してみた


※2018/08/28
水戸街道の歩き旅記事書き始めました。
http://rekisanpota.blogspot.com/2018/08/blog-post_28.html


先日、品川にある「街道文庫」に赴いた。
(街道文庫は場所を点々としており、今年の7月に訪れたときには、品川区北品川2-6-12 ハイツ品川101が住所だったように思う。)

目的は旧水戸街道のルートがわかるような資料探し。
水戸街道は片道100km程度と程よい距離であるし、ほとんどが平地であるためツーリングに向いていると考えたためだ。

店主一人、街道や地理関連の本が所狭しと並ぶ中で、黙々と地図とにらめっこしている。
水戸街道のできるだけ詳細な地図が1冊にまとまっているものはないかと訪ねたところ、まず挙ったのが、山本鉱太郎著「旧水戸街道繁盛記」であった。
(参考:Amazon.co.jp: 新編 旧水戸街道繁盛記: 山本 鉱太郎: 本

私もこの本の存在は知っていたが、店主曰く、読み物的要素が強く、街歩きの地図としてはやや古いという。
次いで提案されたのが、松戸市立博物館の企画展「水戸道中 宿場と旅人」の図録であった。
(参考:CiNii 図書 - 水戸道中宿場と旅人 : 企画展

この冊子には付録として50000分の1の地図上にルートがトレースしてあるものが付いている。見せてもらうと、なかなか良さそうな雰囲気である。
元々水戸街道は江戸から水戸まで直線的なルートを採っているので、極端に折れ曲がったり道が不明瞭な箇所は少ない。この地図があれば旧街道を正確に辿ることが出来るのではないか。

とはいえ、平成10年の企画展であり、使用している地図もそれなりの時代のものであろう。本当に旧街道をなぞることができるかどうか不安になってきた。

そこで、現在の地図上にこの冊子の付録を元に、水戸街道の道筋をトレースしてみた。



意外にイケた。

今後はこの地図をベースに、水戸街道のことも調べていこうかと思う。

2014/08/22

名所江戸百景:猿わか町夜の景 -芝居町から下町へ-



満月の夜に自分の影が伸びるのを最後に見たのはいつだろうか。思い返してみると、かつてそのような経験をしたこと自体無いかも知れない。
「猿わか町夜の景」は道行く人々のはっきりと地面に反射している様が描かれている。こんなにも明瞭に影が描かれるのは、満月の夜だからという理由だけではないだろう。道の両側から光がこぼれてくるのだ。

猿若町のあけぼの

1811年(文化8年)の「文化江戸図」より、浅草寺北東のエリアを抜粋した。
注目して欲しいのは、中央下側にある「●小出シナノ」の文字である。
これは「小出信濃守の下屋敷」を表す。
年代的に小出信濃守=小出英筠(こいでふさたけ。園部藩主。就任期間:1775年(安永4年)〜1821年(文政4年))を指すのであろう。
この下屋敷がある場所をよく覚えておいて欲しい。


そしてこれが1859年(安政6年)「安政江戸図」より同様の場所を抜粋したものである。
小出信濃守の下屋敷だったあたりを見てみると、なにやら2×3のスペースに区切られた土地が出現している。
何を隠そう、これが「猿若町」である。

猿若町が成立したのは1842年(天保13年)。
丁度その頃は、水野忠邦が天保の改革を押し進めていた時期であった。

天保の改革は倹約令を敷いて幕府の財政を立て直そうというものであった。
歌舞伎や芝居の類いは町人の贅沢と見なされたため、幕府から様々な圧力をかけられていた。
そんな最中、1841年(天保12年)、堺町(現:人形町辺り)で歌舞伎を興行していた「中村座」が失火し、全焼。古浄瑠璃の薩摩座などの芝居小屋をも巻き込んだ。この火事は堺町の隣、葦屋町まで広がり、歌舞伎の市村座、人形劇の結城座も被災した。

この火事により、罹災した芝居小屋は同じ場所に再建を試みるが、幕府から禁止命令が出てしまう。幕府としては、これを期に町人の贅沢の一つである芝居鑑賞を制限すべく、芝居小屋を城下から一掃することを考えたのだ。
そこで人形町よりも郊外の浅草聖天町にあった小出信濃守の下屋敷を収公し、芝居小屋の移転を命じた。

この江戸における新たな芝居小屋の拠点は、江戸歌舞伎の創始者であり、中村座の創始者でもある猿若勘三郎(初代中村勘三郎)から名前をとって「猿若町」として成立した。

賑わう猿若町

猿若町が成立した翌年の1843年(天保14年)、水野忠邦が老中を罷免されると、猿若町は盛り上がりを見せ始める。
当時猿若町に軒を連ねていたのは、以下の小屋である。

中村座:
江戸歌舞伎の創始である猿若座が元となった座。
中村勘三郎でおなじみの「平成中村座」の前身となる。

市村座:
京で活動していた村山又三郎が江戸で村山座を興行。その後買収され市村座となる。

森田座(守田座):
木挽町から移転。資金難であることが多く、控櫓(代興権を持つ座)である河原崎座が代興することも多くあった。
歌舞伎公演でよく見る「黒ー柿色ー萌葱」の定式幕は、守田座が発祥。

この中村座、市村座、守田座は、江戸町奉行所により興行が認められた芝居小屋であり「江戸三座」や「猿若三座」と呼ばれた。

また、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座も猿若町で興行を行っていた。

そして現在

「猿わか町夜の景」をもう一度みてみよう。
画面右サイドには手前から「森田座」・「市村座」・「中村座」が並んでいる。
芝居小屋であることを示す「櫓」が各座に掲げられている。

一大芝居町として賑わった猿若町であるが、明治初頭の政府から移転命令により、小屋は次々と町を離れていった。1892年(明治25年)に市村座が離れたのを最後に、猿若町の芝居町としての役目を終えた。

猿若町自体は、明治以降「浅草猿若町」と名前を変えたが、1966年(昭和41年)の住居表示制度により、「浅草」や「花川戸」にまとめられた。

現在の猿若町は下町風情がわずかに残る住宅街といったところだろうか。浅草寺周辺からは程よく離れているため、観光客の姿は皆無といってよい。

猿若町のメインストリート上を中心に左のような旧町名を示した看板が立っている。町名の下には小さいながら、その場所にあった芝居小屋の説明が記されてる。
市村座跡地には「江戸猿若町市村座跡」と彫られた碑が立てられていた。
少し前までは守田座跡地にも同様の碑があった。
しかし石碑を管理していたであろう企業(株式会社櫛原)が、2013年2月に倒産。その後石碑は会社の作業場もろとも消失し、現在では駐車場と化している。

(参考:不景気.com | 東京の皮革類卸「櫛原」が破産開始決定受け倒産


そんな現在の猿若町だが、年に一度かつての賑わいを取り戻す瞬間がある。
毎年5月に行われる浅草神社の例大祭、「三社祭」である。
氏子四十四町会の一つ「猿若」として、旧猿若町が一丸となって神輿を担ぐのである。

そんな三社祭の日に写真を撮ってみた。
普段は人気のない猿若メインストリートに人が集まってきた。これから神輿を担ぐのであろうヤン衆共が、鉢巻きを受け取りつつ、久々に集まった顔なじみと挨拶を交わす。

町は少しずつ変わっていき、そこに属す人も付き合い方も少しずつ変わっているはずだが、なぜか下町風情は不変なもののような気がしてならない。