気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2015/03/22

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day3の③ 〜久那から影森へ〜



24番札所・法泉寺で一休さんナメの武甲山を臨む。
丁度お昼時の時間だったので、階段下のお土産屋で味噌こんにゃくを戴いた。
お店の方曰く、紅葉と巡礼のシーズンが過ぎれば暇になるからゆっくりできるとのこと。

巡礼道は県道72号線の旧道らしき道へ進み、久保平の集落を抜けると再び72号線と合流する。この辺りから、古道の案内標識は「江戸巡礼古道 久那みち」となる。
江戸時代まで「久那村」が存在していた地で、明治の町村制移行で中川村になった後、再び久那村になった。1954(昭和29)年に秩父市に編入されてからは字としてその名を残している。
いつしか道は若干の荒れ模様。左は林、右は建物の高い塀に囲まれ薄暗い道となる。明るい場所に出ると、再びの暗闇、トンネルが待ち受けている。

トンネルを抜けると、「酒づくりの森」の脇に出てくる。ここは江戸時代から続く酒造・八尾本店の醸造工場・販売所・歴史資料館となっている。池袋から秩父へ向かう西武鉄道レッドアロー号の車内で必ず目にする「秩父錦」の醸造元である。


酒づくりの森で軽い休憩を取り、再び元の道に戻る。しばらく県道209号を進むと突然巡礼古道の標識が現れる。手前にある砂利道ではなく、案内板脇にかろうじて様子を窺える藪の中に突入していく。
ぬかるむ足下と蜘蛛の巣との戦いが暫く続く。
かつての巡礼道は宝林院の脇の沢(おそらく崩間沢)を渡り、巡礼坂と呼ばれる坂を上り、この馬頭尊のある箇所に出てくる。しかし、崩落が激しいため通れないので、現在は迂回路を進むことになる。巡礼坂があるとおぼしき辺りを覗いてみたが、薮が深くて崩落以前にどこが道だかわからない状態だった。

安立の集落を抜けると、五百沢(いおさわ)沿いの道を少しずつ下っていくことになる。途中、川を渡るために道路よりもさらに低い場所に降りていく階段がある。
川沿いの道に出ると橋があるのでそれを渡ると、今度は少しばかり登りがある。もちろん未舗装路なので足下がおぼつかない。

再び舗装路に戻ると、民家脇の狭い道に入っていく。一番狭いところで幅1mを切るんじゃなかろうか。ぱっと見ただけでは公道なのか私道なのかも解りづらい。この辺りは旧久那村で「折地区」と呼ばれている集落らしい(新編武蔵国風土記稿には「折原」という小名があるが、同じ場所を指すのだろうか)。

25番札所・久昌寺に到着。通称「御手判寺」とも呼ばれるこの寺は、秩父開祖の十三聖人がこの寺を訪れた際に、閻魔大王から贈られた「手判」という石をこの地に残したためそう呼ばれるようになったとか。


境内では広大な「弁天池」が存在感を示している。天気のよい日には水面に山の緑やお堂などが映り込み、風情を感じさせる景色が広がる。思わず長居したくなる場所であった。

ただあまり長居はしていられない。江戸巡礼古道を辿って「影森駅」まではおよそ一時間の道のり。そこまで日が暮れる前には辿り着きたい。
それほど入り組んだ道のりではなく、基本的には秩父市道幹線74号に沿っていく。何カ所か外れた場所を歩くことになるが、道標に沿っていけば問題ない。
30分程歩くと柳大橋に到達する。
かつては少し下流に「柳の渡し」(1714(正徳4)年開設。「柏木瀬の渡し」とも呼ばれた。)が存在した場所であり、巡礼も渡しを使って行われていたようだ。
柳大橋で荒川を渡ると、秩父市上影森の区域となる。江戸期には「上影森村」だった場所だ。
しばらく登り坂が続くが、このあたりの道は埋立てされた道なので正確な古道のルートは不明である。それでも坂を登りきった辺りには心求・はまの道標石が置かれていた。この反対側には1762(宝暦12)年建立の「一本木地蔵」が鎮座している。この場所は秩父往還の旧道との交点付近でもあったため、人の往来は盛んだったのかもしれない。
国道140号を渡り細い道を行くと、影森小学校に突き当たる。本来の旧道はここを突っ切る道筋だが、現在は通行できないので迂回する。
すぐ近くにある影森中学校は、近年卒業式の定番曲になった「旅立ちの日に」発祥の地である。かく言う私も大変お世話になった曲である。

秩父鉄道影森駅はすぐそこ。しかしパンパンに張った私の足に休息を与えてくれるはずの電車は、先程出てしまったばかりのようだ。

閑静な駅前と夕暮れが醸し出す雰囲気がさらに濃くなった。