気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2015/09/23

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の④ 〜峠とトンネルと地蔵と石段を越える〜



巡礼街道ではなく巡礼「海」道とは言えど、ここは海無し県で有名な埼玉である。
なぜこの道がこのような愛称で呼ばれるようになったかは分からないが、荒々しくも雄大な川の流れに海を感じたのだろう。

薄川(すすきがわ)はヤマメの渓流釣りでも有名な川。未舗装路に入ってから竹やぶを抜けると、丁寧に整備された木橋があるのでこれを渡り薄川の対岸へ。川幅はそれなりに広く、僅かながら「海」感が滲み出ていた。
橋を渡るとややキツい登り坂となる。そのまま登ると県道279号に出る。

ここからは峠越えの道となる。その入口である坂戸の集落には馬頭尊と文政12年(1829年)の秩父坂東西国四国供養塔が置かれている。
石碑の奥は小さな墓地となっているが、その脇に「竹内いしの墓」という説明板があった。ざっくり人物紹介すると、両親への孝行ぶりが素晴らしいということで緑綬褒章を授受した女性だという(参考:埼玉ゆかりの偉人/検索結果(詳細)/竹内 いし - 埼玉県)。
それほど掛からず権五郎落(ごんごうおとし)峠に到達。巡礼海道に入るところにあった道標には「五合峠」と記されていた。名前の由来は、「権五郎さんが足を滑らせて落ちたから」とか「五合の品物を落としたから」とか迷信の域を出ないものであった。調べた中では、近くに「三合落岳」もあることから、山の高さを表しているのではないかという説が最も説得力があった。
峠の両側は切通しになっていて見晴らしは無く、そのまま緩やかに下り坂となる。

巡礼道は赤平川を渡り国道299号にぶつかる。かつてはほぼ直線上に川を渡る道筋だったようだが、道は失われている。飯田橋で迂回して国道に辿り着いた。
少し進むと川沿いに祠と様々な石碑(如意輪大士、巳待塔など)が纏められている箇所があった。おそらくかつての巡礼道はこの場所で国道に突き当たっていたのだろう。

道標群の向かい側にぽつりと置かれている石は、よく見ると文字が彫られている。調べてみたところ平成2年の国道改修工事で発見された道標で「左 三十番 三峰山 右三十一番 右三山 信道(※刕は州の旧字体)」と刻まれているらしい。かつては表裏両面見ることができたようだが、この時は塀に立て掛けられていて片面のみ見ることができる状態だった。
道標の隣には「飯田十王堂」が圧倒的存在感の無さで潜んでいる。十王とは冥土で罪を裁く10人のいわば裁判官のことで、これを祀っているのが十王堂である。死後の罪を軽くしてもらうために、十王の供養をしようという「十王信仰」に基づいたものであろう。


三田川郵便局の脇の道から国道を離れる。その場所に寛政12年(1800年)建立の「千部供養塔」が置かれている。六十六部供養塔の千回バージョンかとおもいきや、こちらは法華経(もしかしたら他の経典かも)を千回読誦した記念として建てられたもの。
道標も兼ねており「右小かのみち 三十一番道」と刻まれている。
岩殿沢を渡る旧道はよくわからなかったので、宮平橋を渡って三十一番寺へ向かう登り坂へ突入する。
庚申塔や大勢至菩薩石碑などの石碑が点在しているエリアの一角に大日堂が鎮座している。内部には大日如来と双体道祖神が鎮座しているようだが確認できなかった。


さらに登るとちらほらと地蔵の姿が目に入ってくる。やけに多いなと思っていると、気づけば四方を地蔵に囲まれているではないか!
ここは昭和46年(1971年)創建の地蔵寺で、水子を供養する地蔵が1万4千体以上も祀られている。ほとんどすべての地蔵には赤い布と風車が供えられており、山間に揃って並ぶ地蔵たちの姿は「圧巻」という言葉が思わず口から出てしまうくらい幻想的な姿であった。
地蔵寺を過ぎると観音山トンネル(1980年完成)を越えることになる。トンネル入口の左側には旧道が残されており、馬頭観音が鎮座している。右側の馬頭観世音碑は文化12年(1815年)のものである。
今回は旧道を使って観音山トンネルを越えた。やや藪が深い箇所があるので注意されたい。

トンネルの先のガードレールには東国西国秩父百観音の札所が記されたプレートが掲げられていた。秩父は狭いエリアに札所が固まっているが、東国・西国については広大な範囲に札所が散らばっているのがよく分かる。
私が今目指している31番寺は百観音もとより秩父巡礼ですら半ばだということを改めて実感させられた。


三十一番寺観音院の「入口」に到着。立ちはだかるは明治元年(1868年)制作の仁王像。ここから296段の石段、標高差53mを一気に駆け上がる。


納経所の終了時刻も迫っていたので、急ぎ足で石段を登る。息を切らしていると下山してくる参拝者から声を掛けられる。「もう半分」「あとちょっと」という優しい言葉は気持ちだけ受け取って鵜呑みにしないようにするあたり、素直な心が未熟である。
丁目石をカウントしている内に、最上部に到達した。断崖の元に佇む観音堂は近年コンクリート造りに再建されているものの、堂々とした風格を放っている。

納経を済ませ、参拝もさながらに、今度は最終バスの時間が差し迫っているので急いで下山。栗尾のバス停で西武秩父駅行きのバスに無事乗ることが出来た。

徒渉・崖道・地蔵軍団、そして石段の先にある崖下のお堂と、これまでの人生であまり経験がないインパクトのあるシーンが経験ができた貴重な一日となった。