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2017/01/29

【歩き旅】川越街道 Day1の① 追分から下練馬宿へ


歩行日:2016/09/24
川越街道の概要についてはこちらのエントリを参照。

ちょっと暇になったのでさっくり歩ける近場の街道に行くことにした。前々から丁度良いと思って目を付けていたのが川越街道。ただ歩くだけなら頑張れば1日で歩ける距離なのだが、どうせ色々観たり疲れたりするだろうということで、二日間の行程にしてみた。


JR板橋駅から歩いて数分。中山道との分岐点である平尾追分をスタート地点とした。


「板橋宿」のゲートを横目に首都高の下を歩いていると、四つ又交差点の手前の歩道に「四つ又観音」が鎮座していた。最近まで別の場所にあったものを移動してきたようだ。
大山東町交差点から、遊座大山商店街に突入する。商店前の看板には「大山の地名は富士山大山道の入口に位置することに由来する」と記されていた。


商店街はそのままアーケード「ハッピーロード大山」に直結する(写真は川越側の入口)。戦後の闇市を発端に整備されてきた商店街である。ハッピーロード大山についてはHPにかなり詳しい歴史が載っているので是非参考にしてほしい(ハッピーロード大山歴史 | ハッピーロード大山商店街|http://haro.or.jp/about/history


アーケードの出口から脇道に逸れると「大山福地蔵尊」が鎮座していた。川越街道だけでなく鎌倉街道も交差していた大山は江戸期にも既に交通量が多い場所であった。そのため人馬の事故が絶えなかったが、それを見かねた「お福さま」なる人物がこれを手厚く葬った。この出来事に由来してお福さまを地蔵として祀るようになったものである。お供え物や写真など、周辺の人々に愛されているのがわかるお地蔵様である。(参考:大山福地蔵尊 | ハッピーロード大山商店街|http://haro.or.jp/about/ofukujizo


街道はしばらく国道254号を行くが、日大病院入口の交差点で下頭橋通りに入っていく。ここから上板橋宿がはじまる。


少し街道を逸れて轡(くつわ)神社に立ち寄る。珍しい名前の神社であるが、由来は徳川家康の乗馬の口にはめる馬具(轡)あるいは馬蹄を祀ったからと言われている。江戸時代に流行った病「百日咳」に効果があるとされ、参拝者はわらじを奉納されているわらじを持ち帰り、完治した際に新しいわらじを奉納していたという。


街道に戻り豊敬稲荷神社に立ち寄る。ここには文政6年の記録に基づいた上板橋宿の概略図がある。上板橋宿は江戸側から下宿・中宿・上宿に分かれていた。本陣などは特に設けられておらず、全長740m程の小さな宿場であった。


上板橋宿は石神井川を下頭橋で越えるところで終わる。橋のたもとには六蔵祠が設置されている。六蔵はこの地で喜捨を受け、下頭橋の架け替えを行った人物とされている(乞食六蔵伝説)。


街道が再び国道に戻ると、小高い台地に長命寺が構えている。江戸前期の創建と考えられており、板橋城跡の伝承地の一つともされている。また豊島八十八ヶ所霊場50番や板橋七福神の福禄寿が充てられている寺院でもある。


脇道に逸れてときわ台駅方面へ向かうと、駅前に天祖神社がある。豊島氏が周辺を開拓した室町時代の創建と考えられており、上板橋村の鎮守・村社として崇められていた。江戸時代には老松や柊などが境内を覆っていたようで、昭和に入ってから設定された「常磐台」の地名は、この老松の常磐なる(堂々とした)姿に由来するという。


国道に戻りしばらく行けば上板南口銀座の入口から再び旧道をたどることができる。国道をそのまま進むと「五本けやき」を見ることができるが、位置がいまいち解らなかったので今回は見送った。


板橋区と練馬区の区境に元文4年(1739)建立の庚申塔があった。一面八臂の青面金剛が彫られており、ここが下練馬宿の入口であることを示す役割も兼ねている。


下練馬宿は江戸側から下宿・中宿・上宿に分かれており、徳川綱吉が将軍になる以前には上宿に御殿を構えていた。綱吉が脚気にかかった際、治療に効果があるとされた大根の種を尾張から取り寄せたことにより練馬大根の栽培が始まったとされる。


環状八号線を越える場所に宝暦3年(1753)の大山道の道標が立っている。道標の上には不動明王座像が後年に付け加えられている。
その脇にある小さな石碑は東高野山道の道標である。東高野山とは同じ練馬区内にある「長命寺」を指す。慶長18年(1613)に創建した同寺だが、後に高野山奥の院を模した石仏などを祀るようになったことから、いつしか東高野山と呼ばれるようになったという。


環八を越えると北町浅間神社がある。この地にはかつて清性寺があったが、廃寺になっており、その頃に出来た神社とされている。ここには立派な富士塚が築かれている。こちらは富士講が盛んだった江戸時代に作成されたもので、頂上の標高は37.76mとなっている。小規模ながら登山道が整備されており、烏帽子岩や猿の像など富士塚としての基本的要素を取り揃えた見ごたえのある富士塚である。

まだしばらく都内を歩いていく。

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