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2017/03/02

【歩き旅】川越街道 Day1の② 下練馬宿から和光市へ


歩行日:2016/09/24
川越街道の概要についてはこちらのエントリを参照。


街道は東武練馬駅の近くを通るが、この場所に北町観音堂が建っている。
ここには、天和2年(1682年)の銘がある北町聖観音座像が鎮座している。そのことについては、江戸時代の紀行文「十方庵遊歴雑記」にも記述があり、この場所が赤塚村への分岐の目印となったことがわかる。
お堂は平成24年(2012年)に新調され、仁王像、馬頭観音、庚申塔などがまとめられている。


街道は再び国道254号に合流し、地下鉄赤塚駅前に差し掛かる。
駅前に「鎌倉古道 至かまくら 至はやせ」と書かれた碑が建っている。碑上には武者騎馬像が鎮座している。詳細は定かではないが、この碑の脇の道が鎌倉古道らしい。ちなみに「はやせ」は旧足立郡早瀬村(現埼玉県戸田市)を指すようだ。


緩やかな坂を下ったところにある小治兵衛窪庚申尊には、青面金剛座像が彫られた天明3年(1783年)の庚申塔が置かれている。天明の飢饉による犠牲者を供養するために設置された庚申塔とのことだ。
また「小治兵衛」という盗人が罪滅ぼしのためにこの地に橋を架けたことから、この地を「小治兵衛窪」と呼ぶようになったという伝説があるようだ。
庚申塔の隣は昭和29年建立の「百七拾周年記念碑」で、長きに渡って地元の信心を集めていたことが伺える。


地下鉄成増駅を越えて国道の北側へと逸れると再び緩やかな下り坂となる。ここは「新田(しんでん)坂」でかつての成増村の「向新田」に由来する名称となっている。
ここでは坂周辺にあったものを新田坂石造物群としてまとめて供養している。その中の一つ文政13年(1830年)建立の常夜灯は、「大山」と刻まれており、道標としての役割も果たしていたようである。

新田坂中腹には八坂神社があり、ここから白子宿までは「新田宿」と呼ばれた集落が街道沿いに発展していた。この新田宿から白子宿までは一続きになっていた。


白子川を渡る白子橋の手前で、埼玉県に入る。県境が川の流路と異なるのは、かつて複雑な線形だった川の流れを整備したためだろうか。川を越えると白子宿下宿に入る。かつては旅籠が立ち並んでいたが、いまでは一軒も残っていないという。
白子宿は下宿・中宿・上宿に分かれており、各宿に本陣が置かれていた。


街道は白子台地に突き当たり90度折れ曲がる。この場所に建つ熊野神社は中世の創建と考えられる由緒ある神社で、旧下白子村の村社であった。神社の境内では明治9年(1876年)に日本初の養魚場が作られた。武蔵野台地から集められた湧水を利用したもので、今でも神社周辺では湧水が豊富に湧き出ており「白子湧水群」を形成している。


白子宿の出口では「大坂」で台地を上がっていく。途中にはかつての雑貨商「佐和屋」の古い造りの家屋が佇み、往時の姿がわずかながら窺える貴重な場所である。
また坂上の付近には「大坂ふれあいの森」があり、湧水群と斜面林を持つ市民緑地が広がっている。


大坂を登り切り県道を越えると緩やかな「くらやみ坂」で少し下る。そこから浅久保通りを少し進んだ「伯楽製鋲所」の敷地内に石造馬頭観世音のお堂がある。光背を備えた馬頭観音で「上岡村寫」の文字が刻まれている。これは東松山市にある関東随一の馬頭観音霊場である「上岡馬頭観音」を模して作られていることを表しているという。


浅久保通りは県道109号線にぶつかり、街道は県道に沿って西へ進路を変える。この交差点を直進すると引又道で引又宿へと至る。引又は志木街道と新河岸川の交点にあたり、舟運が盛んだった時代は非常に栄えた場所であった。
この交差点にある酒屋・田村屋の脇に庚申塔がひっそりと置かれていた。小雨が降っていたせいかネズミがちょろついていたのもご愛敬。


日も落ちてきたので、川越街道1日目は和光市駅入口の交差点から東武東上線和光市駅へ向かい終了。