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2017/04/19

【歩き旅】川越街道 Day2の① 和光市から三芳町へ


歩行日:2016/10/02
川越街道の概要についてはこちらのエントリを参照。


川越街道2日目は和光市駅からスタート。県道109号を西に進んでいく。
しばらく進むと進行方向右手に旧道が見える。この旧道はすり鉢状にくぼんでおり、一番低い辺りが根岸村(現朝霞市)と新倉村(現和光市)の境界であった。


旧道はすぐに県道に合流し、幸町三丁目交差点を越えた辺りで再び旧道分岐がある。稼ぎ坂と呼ばれる急坂を下る途中に「膝折不動尊」がある。比較的新しい容姿で、会社の敷地内にあることからも、この会社が独自で設置したもののように思う。
坂を下りきった辺りから膝折宿だったと考えられる。


阿吽の金剛力士像が迎えてくれる一乗院平等寺に立ち寄る。創建年は明らかでないが、高麗人が十一面観音を建立したことに始まるという。境内には「膝折学校発祥の地」碑が立っており、寺内で行っていた寺子屋が明治の学制発布に伴い膝折学校となったという。


膝折宿は近くに平林寺や仙波東照宮といった観光地が近くにあることからも、川越街道の中でも賑わいを見せていた宿場であった。旧脇本陣の村田屋は今でも旧家の佇まいをそのままに残している。高麗家が業務にあたっていた。
一方の本陣は現在膝折郵便局のある場所にあり、牛山家が務めていた。


大橋で黒目川を渡り、道が二股に別れる箇所に元文元年(1736年)の庚申塔が建っている。右がかごやの坂、左がたびやの坂の分岐となっており、かつて籠屋や足袋屋が軒を連ねる賑やかな地であったことを伺わせる。旧道は左のたびやの坂を上っていく。


旧道は朝霞市と新座市の境界となっている。
旧道が県道と合流する箇所に横町の六地蔵が並ぶ。六地蔵は享保17年(1732年)作成のもので、その脇には正徳4年(1714年)建立の地蔵菩薩、宝暦6年(1758年)建立の庚申塔、六十六部廻国塔などが集められている。


野火止大門交差点より街道を逸れて寄り道をば。
野火止と言えば埼玉県民は小中学校で必ず習う「野火止用水」が頭に浮かぶ。野火止用水は東京都立川市の玉川上水から埼玉県志木市の新河岸川に伸びる全長24kmの用水路。承応4年(1655年)に川越藩主松平信綱が開削した。


平林寺は永和元年(1375年)に岩槻で創建した。寛文3年(1663年)に松平信綱の遺志を受けて現在の地に移った。広大な敷地には山門を始めとする禅宗の伽藍や、松平信綱を含む大河内松平家の廟所、東京ドーム9個分の広さの雑木林などがある。
この雑木林は国内唯一の雑木林としての国の天然記念物に指定されている。


さて昼食も済ませて街道に戻ろう。野火止交差点から少し歩けば小さな祠を備えた八雲神社が目に入る。その向かい側の緑道はかつての野火止用水と思われる。


野火止上分(かみぶん)と大和田宿の堺に位置していたのが神明神社。境内にある庚申塔は元禄11年(1698年)、正徳5年(1715年)のもの。境内には他にも百度石、秋葉大権現、金毘羅大権現の石祠などが鎮座している。

大和田宿はこの先の柳瀬川越えに備えて人馬の継立てを行っていた地が発展して成立した宿場であった。奥州街道と交差する地でもあり交通量も多く、川越街道の中でも白子宿に次ぐ規模だったが、本陣・脇本陣は設けていなかった。明治以降も埼玉県内有数の市街地であったが、大正3年(1914年)に町の北方に志木駅ができると、次第にそちらに人が移っていき、現在では宿場の面影はほとんど残っていない。


かつて下宿だったあたりの道沿いの高台に元禄9年(1696年)建立の鬼鹿毛(おにかげ)の馬頭観音が祀られている。かつて常陸国にあった小栗城主・小栗道重の子、小栗小次郎助重をモデルにした「小栗判官」という説経節がある。後に歌舞伎にもなったこの物語になぞらえた伝説が地元には伝えられている。
秩父から愛馬鬼鹿毛にまたがり、江戸での急用のため街道を飛ばす助重。大和田宿の終わりあたりで疲労のためか鬼鹿毛が松の根に躓いてしまう。それでもなんとか江戸まで辿り着くが、帰路に就こうとすると愛馬が居ないことに気付く。鬼鹿毛は大和田宿で息絶えていた。このことからこの地は「鬼鹿毛」という地名になったという。
ちなみに「膝折」は鬼鹿毛が膝を折った場所に由来するという伝説も残っている。


上宿に差し掛かると現れるこの公民館というか集会所のような建物は観音堂だという。建物の入口には地蔵菩薩が鎮座している。かつて大和田宿の入口には高地蔵が設置されており、結界のような役割を果たしていた。江戸側の高地蔵は丁度この日工事をしていたようで見ることができなかった。観音堂の前にある地蔵はもしかしたら川越側にあった高地蔵なのかもしれない。


大和田宿を抜けると英橋で柳瀬川を越える。
跡見学園女子大学の脇に石垣と階段がある。若干崩れそうな石段を登ると、石灯籠と「三國第一山」と刻まれた石碑が置かれている。日本・唐・天竺の三国で一番の山、つまり世界一の山「富士山」を表す言葉である。ここは中野富士と呼ばれる富士塚で、よく見ると笠印が刻まれた石碑が幾つも設置されているのがわかる。


国道254号に沿って三芳町に突入する。町名は伊勢物語に登場する「みよし野」の地名に由来するが、その当時県内に「みよしの村」が3つも存在したため、混同を防ぐため「三芳」に落ち着いたというから驚きである。

藤久保集落に差し掛かる箇所に木宮稲荷神社がある。寛文元年(1661年)に当地を領有していた中山治左衛門なる人物が、大阪で藤久保に稲荷が下る霊夢を見たことをきっかけに、紀州の木材を当地に送り稲荷社を築いたとされる。このことから「木宮(きのみや)」と称されることとなったという。
ちなみに神社前の中央分離帯に旗枕のようなものがあるが、かつての境内が国道の拡張で分断された名残である。