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2018/01/27

【歩き旅】大山街道 Day5 その③ 〜下鶴間宿のいま〜



大和市下鶴間ふるさと館は旧小倉家の母屋と土蔵が復元されており、その外側には高札場も設置されている。旧小倉家は安政3年(1856)年建築の商家造りで雑貨商を営んでいた。母屋は木造銅板葺、入母屋造り、四間取り で造られている。下鶴間宿唯一の宿場町時代の遺構である。


その先、下鶴間不動尊へ上がる階段が伸びる。その入口にある「不動尊」と書かれた石碑は、寛保3年(1743年)に建てられたものであり、かつては不動明王が上に乗っていたのだが風化で殆ど失われている。


階段を上ると不動堂がある。中に安置されている不動像の中から発見された文書から貞享元年(1684年)造立ということがわかった。また下鶴間宿以外の人物が施主となっていることから、外部の人々の信仰を集めていたこともわかる。毎年1月28日の初不動にはだるま市が開かれ、だるまの出店が出たり、だるまのお焚上げなどのイベントが行われている。
その後ろに小さく写るのは「蚕神さま」と書かれた祠。古い地図を見ると下鶴間の集落の周りは桑畑が広がっていたことから、養蚕を生業としている地域であったことがわかる。


不動堂の隣には永禄12年(1569年)開創の鶴林寺がある。浄土宗関東総本山である鎌倉・光明寺の末寺であり、境内にはかつて公立小学校である鶴鳴学舎(下鶴間学校)があった。


鶴林寺の先、道が三叉に分かれている。この三叉路は巡見使道との分岐点にあたる。(諸国)巡見使は江戸時代に将軍交代の際に派遣された、管轄領地の調査団。天保9年(1838年)の12代将軍家慶就任に伴う巡見の際、正史である安藤定喬が座間・栗原から長津田へと向う際に利用した道がこの巡見使道である。
ここに子育て地蔵尊がある。2体の地蔵を祀るには不思議な配置のように思うが、かつて左側にもう一体地蔵があったのだが盗難にあってしまったのだという。


祠の左側には「常夜燈」と刻まれた石碑が置かれていた。


三叉路の叉のところには道標が置かれている。「左 矢倉□」「右 星谷□」と刻まれているようだ。星谷□は座間にある星谷寺のことであろうか。
ここには通称「まんじゅう屋」と呼ばれる旅籠・土屋家があった。渡辺崋山も「游相日記」でこの旅籠に宿泊し、その時の様子をイラストで描いている。


大山街道をゆき、再び三叉に差し掛かる。ここに明和元年(1764年)の銘が入った坂上厄除け地蔵がある。道標を兼ねているようで、「左大山道」「右ざまみち」と記されているという。この三叉も先程の巡見使道と同様、座間方面へ向う道として利用されていたのだろう。


そこから少し歩くと真っ赤な鳥居が目に入る。下鶴間日枝神社は山王社とも呼ばれており、創建年代こそ不明だが新編相模国風土記稿にも「山王社」の名があり、この神社と比定されている。かつてはこの神社一帯は「山王原」と呼ばれる原っぱで集落の字名でもあった。今では少し離れた国道246号に「山王原」の交差点が残る。


鳥居前には二基の庚申塔が並んでいる。左にあるものは摩耗がひどく正面に何が彫られていたのか見当もつかない。右にある小さなものは青面金剛が彫られているのがわかり、「右 大山みち」と刻まれているという。


その隣の道標には滝山街道の文字が。滝山街道は鎌倉時代に整備された街道で、大船玉縄城から藤沢、長後、下鶴間、橋本、御殿峠、八王子、滝山城と続く小田原北条氏の軍事的に重要な道であった。下鶴間は相模国内の南北と東西の重要街道が交差する集落として発展を見せた。


すっかり辺りも暗くなってしまったので、小田急江ノ島線鶴間駅より帰宅。都内から日帰りで行けるのはやっぱり手軽で嬉しい。

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