気の向くままにつらつらと。

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2018/02/06

【歩き旅】大山街道 Day6 その① 〜いくつもの市を越えて〜



大山街道歩き6日目は鶴間駅よりスタート。しばらくは国道246号の旧道区間を進む。大和斎場入口の交差点で右に入り細い道へ。大和斎場入口前に矢倉沢往還の道標がある。


その道標の隣にあるのが西鶴寺。非常に小さな寺院で由緒等イマイチわからない。この辺りは下鶴間村(現大和市)・上草柳村(現大和市)・栗原村(現座間市)が交わる場所。引地川の源流でもあり「水の牛王(みつのごおう)」と呼ばれていたという。これは「三つの郷」が転訛したものとも言われている。


南西方向に一直線に伸びる街道は国道246号で寸断される。相模向陽館高校交差点まで迂回して対岸へ渡る。再び一直線に進んでいくと、さがみ野二丁目交差点に大山街道の道標がある。進行方向右手が座間市さがみ野、左手が海老名市東柏ケ谷であり、街道が市境になっている。
ここから先、目ぼしいウェイポイントもなく相模鉄道さがみ野駅前を通過し、大塚本町交差点を渡ると、今度は右手が海老名市柏ケ谷、左手が綾瀬市寺尾北となる。


パブコ相模工場の広大な敷地が見えてきた辺りで少々街道を外れてみる。住宅街方面へ台地を上っていくと、なにやら石碑と石桶?のようなものが置いてある。火山灰を積み上げて造られたの富士塚とのことだが塚感はない。石碑は庚申塔で文化3年(1806年)のものだというので、歴史はそれなりにあるようだ。


街道に戻り、少し進むと銀杏の木の袂に古びた石造が置かれていた。こちら赤坂道標と呼ばれるもので「左江戸道」「神奈川道」と刻まれているという。宝暦6年(1756年)の道標のようで、正面には百万遍供養の文字があったようだが風化が激しく読めない。上部には不動明王座像が乗っている。


ゆるい登り坂を進むと、花壇の脇に細長い道標がある。「右 国分 厚木 左 大塚 原町田」「右 小園 早川 あや瀬村小園」と刻まれているようだ。国分・厚木に向う方面が大山街道。


道標の脇から古東海道が延びている。天保2年(1831年)、渡辺崋山が仕えていた三河田原藩の三宅友信の生母・お銀さまに会うために小園村へ向う際に通ったのがこの道。その様子は「游相日記」に記しており、当時の大山街道周辺の様子を詳細に知ることができる貴重な資料となっている。


望地交差点から大山越しの富士山を臨む。「望地(もうち)」という地名は、相模国分寺を望む場所に由来しているという。


目久尻橋で目久尻川を渡る。川沿いを進むと文化10年(1813年)の石橋供養塔がある。宝暦年間、国分村に住む重田七三郎なる人物が有志で周辺各村より寄付を募り、当時は珍しい石橋を架けた。これにより河川の氾濫により橋が流されることなく、街道の往来を途切れさせることなく続けることができた。供養塔は七三郎の死後にその功績を記念して建てられたものである。


伊勢山自然公園沿いに寛政3年(1791年)の石仏があった。戒名が刻まれていることから供養塔と思われる。添えられている花は定期的に替えられているようで、篤い思いが滲み出てくる良い景色だった。


道祖神三連星。左から嘉永2年(1849年)、明治39年(1906年)、昭和9年(1934年)のもの。神奈川県内は道祖神信仰が今でも盛んであり、町のあちこちで道祖神を見かけるが、西に行くほど石碑が多く残っているように思うのは単に東側の開発が盛んだからだろうか。


伊勢山公園前交差点の分岐地点に史跡逆川の碑がある。先程渡った目久尻川の別名なのかと思ったが、脇にあった説明板を見てみると少し違うようだ。


奈良時代に行われた大規模な河川整備事業において、国分エリアの先にある海老名耕地への灌漑と舟運目的で目久尻川を堰き止め、分水を行った。北から南に流れていた川が、南から北に流れが反転する箇所ができたことにより「逆川」と呼ばれ、相模最古の運河として明治時代まで利用された。現在は埋め立てられているが、発掘調査などによりいくつかの遺構が発見されているという。

さて伊勢山大神宮に参ろう。

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