気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2018/09/16

【歩き旅】水戸街道 Day1 〜下町をゆく〜



水戸街道は日本橋を起点にスタートし、千住宿で日光街道・奥州街道と分岐する。今回は千住宿の水戸街道分岐点から歩き始めることにした。


プチテラス前に「北へ 旧日光道中 東へ 旧水戸佐倉道」の道標がある。水戸街道はこの先の新宿まで佐倉道と同じ道筋をたどる。元々ここには天明元年(1781年)建立の道標があったが、現在は足立区立郷土博物館に保管されているという。
日本橋から日光街道・奥州街道と共にしてきた水戸街道はここで右折する。


右手に元禄4年(1691年)創建の千住氷川神社がある。境内社には稲荷神社、猿田彦神社と並んで聞き慣れない「高正天満宮」がある。地元の名主・高梨信平がその屋敷に住んでいた正木昌房に菅原道真像を譲り、これを氏神社で祀るようにしたものを「高正天満宮」と呼ぶことにしたのだという。


常磐線、つくばエクスプレスの高架をくぐると清亮寺がある。門前にはかつて樹齢350年の臥龍松があり街道に被さるように伸びていたが、昭和20年頃に壊死してしまった。徳川光圀の行列がこの場所を通行する際、本来であれば通行に邪魔な松を切ってしまうところを、槍を立てかけて休憩に使ったという名采配から「槍掛けの松」として有名であった。
今では松の有志を覚えている安永8年(1779年)建立の髭題目碑が門前に立つ。


住宅の一角に日ノ出神社がある。弥五郎新田にあった神社が荒川放水路の開削により川の底となってしまったため、そこにあった稲荷神社を五反野の西ノ宮稲荷神社に合祀、それをさらに分祠したものがこの日ノ出神社である。


街道は荒川の土手に突き当たる。以前は新宿までまっすぐ直進していた街道であるが現在では向こう岸の街道筋すら見えない。
荒川放水路は大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけて開削された人口河川であるが、これを横断するには下流にある堀切橋まで迂回する必要がある。泳いで渡るわけにもいかないので、しかたなく2km程迂回する。


街道に復帰して直進していくと「水戸橋跡地」の案内板に突き当たる。
水戸橋は寛永年間に架橋されたとされる橋で、案内板の脇には江戸明治期の橋台が遺されていた。水戸光圀がこの橋の袂に出た妖怪を退治したことから「水戸橋」と呼ばれるようになったという。
最近まで昭和30年(1955年)架橋の太鼓橋が街道を直進するように架かっていたが、橋によって堤防が欠けた状態になっていたため、防災上の観点から2012年頃閉鎖された。


現在の水戸橋は旧橋よりも50m程上流に位置する。旧橋より高い場所に架かっており、これで綾瀬川を越える。


小菅神社に立ち寄る。
明治2年(1869年)の版籍奉還によって、小菅県が設置された。県庁は旧幕府小菅御殿があった場所(現在の東京拘置所)に設置され、伊勢の皇大神宮を勧請した。
小菅県は明治4年(1871年)の廃藩置県により東京府の一部となり、社を田中稲荷神社の境内に移したものが現在の小菅神社である。


街道の脇に「鵜乃森橋」があった。この橋がかかるのは古隅田川で、足立区と葛飾区の区境になっている。


小菅三丁目交差点から少し離れた場所にあった隨喜稲荷神社に立ち寄る。「隨喜」とは仏”仏教において他人の善行を見て心に歓喜を生ずること”だという。小さい境内だが、富士講の登拝記念碑のようなものや小さな祠がある。
神社の由縁はわからなったが、三叉路の向かって右手の道が古くからある道で、神社自体も明治42年の地図に見られる。


小菅三丁目交差点には「立場」と刻まれた石とベンチのようなものが置いてあった。ここに千住宿・新宿間の立場(休憩所)があり、江戸時代より受け継がれていたという。


街道は古隅田川に沿うように伸びている。旧道への分岐では葛飾区が設置した案内板もあるのでわかりやすい。
ここから先、街道の線形は大きく弧を描くように曲がっていくため「大曲」や「蔵の内」と呼ばれるポイントである。


旧道を進んできた道は、西亀有三丁目の交差点で都道407号へ合流する。現在の地名は「亀有」だが、大正の頃には「道上」という地名があった。旧水戸街道(当時は陸前浜街道と呼ばれた)の道沿いにあったことに由来するのだろうか。現在では道上小学校や道上保育園の名前に名残が見える。

道上小学校東の交差点を越えたあたりに千住宿から一里の場所にあたる一里塚碑がある。隣には水戸黄門と助さん格さんをモチーフにした像が建っている。


葛飾区亀有といえば、週刊少年ジャンプで計算され単行本巻数のギネス記録も持っている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の舞台として有名。街道沿いにはキャラクターの像がいたる所に飾られている。「本田」は普段は気弱だが、バイクのハンドルを握ると性格が豹変することで有名なキャラクター。
亀有は室町時代以前は「亀無」という地名であったが、江戸時代になって「亀有」となった。


中川を中川橋で越え、すぐに右に曲がれば千住宿の次の宿場である「新宿」の町並みが広がる。かつては「あらしゅく」という呼び方だったが、現在の地名は「にいしゅく」となっている。宿場全体が「コ」の字型にまがっており、下宿・中宿・上宿から形成されていた。千住から近いこともあり本陣は置かれておらず、小規模な宿場となっていた。
水戸街道と佐倉道の追分があり交通の要衝であったため、室町・戦国時代には既に宿場が形成されていたとされる。
現在では都内の住宅街エリアのため宅地開発が進んでおり、往時を偲ぶものは殆ど残っていない。


宿場の中心にほど近い場所にある日枝神社に立ち寄る。創建年代は不明であるが、宿場の成立と同時期の室町・戦国時代には何かしら祀られており、旧別当寺の雲海寺が永禄2年(1559年)創建のため、その時期に神社が創建されたと考えられる。
平成20年(2008年)に社殿等の造替がされたため、建物は非常に綺麗な状態であった。特徴的な山王鳥居の赤が映える。


宿場を越えたあたりに石仏群がある。道路拡張と用水埋立工事に伴って、地蔵菩薩などの石仏13体と八大龍神石碑をここに集めたのだという。このあたりの道は訪問の数年前にも通ったことがあるのだが、その時に比べてさらに道路が整備されていたように感じた。


石仏群の隣には「帝釈道」と刻まれた道標がある。柴又帝釈天へ向かう道を案内したもので、明治30年(1897年)建立の道標である。


この日は金町三丁目の交差点までで終了。最寄りの金町駅から帰宅することにした。