気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

2018/11/28

【歩き旅】水戸街道 Day3 その① 〜「我孫子」は初見では読めない〜



3日目は柏駅よりスタート。柏神社ではなにやらお祭りのようなものをやっていた。


そごうの立体駐車場の前に石碑が立っている。ここは明治13年(1880年)に明治天皇が陸軍の軍事演習を見学する途中に立ち寄った寺嶋家があった場所である。
寺嶋家は柏駅の誘致や柏郵便局の設置に貢献した柏の名手であり、私塾やサロンとして利用されることもあった邸宅は「摘翠軒」の愛称で親しまれていた。


江戸へ近道?と刻まれている石碑があった。


トヨタレンタカーを越えたあたり左に入ると諏訪神社がある。由緒は明らかでないが、諏訪神社が関東一帯に広まったのが鎌倉時代であることから、古くより鎮座していたと考えられる。


柏の市街地を抜けると常磐線の線路に当たる。旧道はこれを越えて北進から北東へと曲がる。その線路の向こう側に一際目を惹く洋館がそびえたっている。
こちらハート柏迎賓館は、元々「柏玉姫殿」という名称の結婚式場を運営していた。後に「マリアチャペルマリベール柏」に改称したが、2014年に閉館。その後は貸イベント会場の施設として現在の名で営業している。


線路沿いを行くと寛政11年(1799年)建立の馬頭観音碑がある。側面には「なかれやまみち」と刻まれている。流山へ至る道とは、今歩いている水戸街道を指すのか、それともここから脇にそれる道を指すのかは分からなかった。


真言宗の東陽寺の墓地前に、多くの石碑が並んでいる。左から順に、
 延宝8年(1680年)十九夜念仏如意輪塔
 延宝3年(1675年)十九夜念仏如意輪塔
 安永8年(1779年)青面金剛塔
 元禄2年(1689年)庚申塔
 延宝7年(1679年)庚申塔
 大正8年(1919年)出羽三山百観音巡拝塔
 大正11年(1922年)馬頭観音碑
 昭和26年(1951年)馬頭観音碑
 万延元年(1860年)普門品塔
と並んでいる。


東陽寺の道を挟んで反対側には妙蓮寺がある。こちらは建武元年(1334年)頃創建の日蓮宗の寺院であるが、境内入ってすぐの所にこじんまりとしたお堂が建っている。これは清正公堂で、中には清正が手植えした木で作られた清正像が祀られているという。


根戸バス停の奥に八幡宮の祠がある。この辺りはかつて「根戸宿」と呼ばれ、街道沿いに比較的敷地が広い家々が立ち並んでいる。


根戸には江戸幕府直轄の「根戸村御林(おはやし)」があった。黒船来航の後、幕府は対外防衛のために江戸湾品川沖に砲台、いわゆるお台場を建設したが、その建材として使われたのが根戸村の木材だという。


我孫子駅前には八坂神社が鎮座している。応永3年(1396年)の創建とされ、
我孫子の集落が成立した頃と考えられる。八坂神社の裏手は急坂になっている。これはその奥にある手賀沼のかつての浸水域を物語っているものである。
平安時代の頃の手賀沼は、太平洋から伸びる「香取海」の入江の一つで「手下浦」と呼ばれていた。当時は霞ヶ浦や印旛沼とも繋がっていたが、江戸幕府による利根川東遷事業などにより現在の独立した沼になった。
昭和に入ると埋め立て事業に加え、その土地にディズニーランドを建設する計画もあったようだ。


八坂神社前の真っ直ぐな道のあたりからが、かつての我孫子宿の宿域であった。我孫子宿は天保14年(1843年)の記録では、本陣1、脇本陣1、家数114軒、常備人馬数10人、10疋の規模であった。
大正期になると、手賀沼を臨む景色が風光明媚であることから「北の鎌倉」と称されるようになった。柔道の創始者・嘉納治五郎が別荘を構え、武者小路実篤をはじめとする白樺派の文人が移り住み、志賀直哉が「暗夜行路」を書いたのもここ我孫子である。


現在の我孫子宿は道路拡張などのあおりを受け、古い建築なども少ない。


三叉路になっている交差点の中央の木陰には、多数の石碑が乱雑に置かれている。中央にあるのは「右成田道」と刻まれた文化13年(1816年)の石碑。その左側の青面金剛碑は安永5年(1776年)のもので、「右てうしみち 左水戸みち」と刻まれているという。他にも江戸期の道標や石碑が転がっているようだが、草に覆われて確認できなかった。

道標にもあるように、ここを直進する道が成田山へと続く道である。この道は布川街道とも呼ばれ、布佐、布川、中田切、紅葉内を経由して若柴宿で水戸街道と合流する道である。さらにいうと、取手宿・藤代宿経由のルートが設定される以前は布川街道が水戸街道として利用されていた。


三叉路の三角地帯の先端部には明治22年(1889年)の道路元標が置かれている。当時の道路元標は各市町村の主要地点(市役所前や主要道の交差点など)に一基ずつ置かれていた。当時からこの交差点が主要道として認められていたことが伺える史料である。


この先、泉交差点から先は常磐線の線路によって旧道は分断されている。そのため、線路をアンダーパスして迂回する。トンネルを抜けてしばらく進むと右の林に入る未舗装路があるのだが、道の左側を進んでしまったためさらに先の歩道橋まで進む。

遠回りしてしまったが、大空の元に広がる田園風景を臨めたのでよしとする。

2018/11/14

【歩き旅】水戸街道 Day2 その② 〜小金牧を抜けて〜



北小金交差点で国道6号を横切ったあたりから、小金宿の宿域に突入する。

門の朱色と「金龍山」の扁額が印象的な寺院が見えてくる。ここ一月寺はもともと虚無僧寺で有名な普化宗(ふけしゅう)という宗派の関東総本山であった。当時は「いちげつでら」という名前であったが、普化宗が江戸幕府との繋がり強かったことから明治政府により解体された。
その後、一月寺は日蓮正宗に宗派替えし、寺名も「いちがつじ」に改めている。


小金宿は南北約1kmに渡って広がる大規模な宿場であった。元々、小金城の城下町として発展した集落から発展し、江戸時代には幕府の軍用牧場である小金牧に近いことから重宝されていた宿場である。
宿場にある目を惹く旧家は、旅籠であった玉屋である。建物自体も江戸末期に建てられたもので、今なお民家として利用されている非常に珍しいものである。


現在の小金宿は町域のほとんどが住宅地となっており、旧家も先程の玉屋を除くとほとんど残っていない。地図を見てみると、小金宿域の西側には「小金清志町」、東側には「小金きよしケ丘」と似たような名前の町名がある。これはドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者で松戸市長でもあった松本清氏にちなんでいる。町名が付けられたのはどちらも松本清氏が市長になる前のことであった。戦後に政治家の名前が地名になる例は非常にレアケースとのこと。


左手に規模の大きな寺院の境内と山門が見える。こちら東漸寺は文明13年(1481年)開創の古刹である。当初は根木内にあったが現在地に移設され、江戸時代初期に浄土宗の檀林(僧侶の養成機関・学問所)をまとめた「関東十八檀林」の一つに指定された。
境内には松などが整然と植えてあり、その由緒の正しさと寺院の格の高さを物語っている。


小金宿は北小金駅手前で左に90度折れ曲がる。ここに小金宿の説明板が立っている。


道の向かい側には石碑が3つ並んでいる。
一番大きいものは「八坂神社御跡地」の碑で、小金城主であった高城氏によって八坂神社が建立されていたのだという。神社は昭和48年(1973年)に400mほど西側に移転した。
真ん中の風化が進んでいる石碑は、明和5年(1768)年建立の道標。「右 水戸海道」と刻まれている。左端の石碑も道標で、建立年はわからないが江戸時代のものとされ、「右 水戸道中 左 なかれ山へ」と刻まれている。
この道を真っ直ぐ進む道は日蓮宗である本土寺の参道であった。アジサイ寺として有名で、「北の鎌倉」とも呼ばれているという。


街道を進んだ先、左手に広がる小山と広場は根木内歴史公園である。根木内城は寛正3年(1462年)に高城胤忠による築城とされ、天文6年(1537年)に小金城ができるまで、高城氏の拠点であった。
現在では城址の中央を国道6号が分断しており、西側は宅地開発で消失してしまっている。

根木内城址橋で上富士川を渡り、坂を登った辺りから柏市へと突入する。道の脇に庚申塔が2基鎮座していた。左が享保9年(1724年)、右が宝暦12年(1762年)のもの。やはり市堺には庚申塔が置かれていることが多い。


江戸時代初期の創建とされる香取神社の境内に一里塚の碑がある。かつてこの場所には江戸から7番目の一里塚が設置されており、榎が植えられていたという。昭和16年(1941年)の道路拡張によって、塚は消滅した。
碑には小林一茶が小金牧について詠んだ句「下陰を さがしてよぶや 親の馬」が刻まれている。


南柏駅を通り過ぎると、見えてくる鬱蒼とした森は八坂神社のもの。
かつてこの辺りの街道沿いには松並木があり、街道の道しるべの役割を果たしていたという。昭和50年代まで並木は存在していたようだが、周囲の開発や松の老木化などにより、現在では残っていない。


旧日光街道交差点から伸びる道は、日光街道石橋宿と雀宮宿の間に至る「日光東往還道」と呼ばれる官道であった。途中、関宿や結城宿、多功宿を通るため、関宿道、結城街道、関宿通多功道などとも呼ばれた。


2つの神社が合わさって鎮座していた。別雷神社は茨城県の金村別雷神社の写しを勧請したもの。金村別雷神社は関東三雷神の一社ともされ、承平元年(931年)に京都の賀茂別雷神社より分祀したもの。悪事災難除けを祈ったものと考えられる。
一方の稲荷神社は愛知県の豊川稲荷神社より分祀したもので、五穀豊穣を祈願して祀られたのであろうか。
どちらも明治3年(1870年)創建で、明治29年(1896年)に現在地に遷座された。


赤い幟が立ち並んでいるのは昭和40年(1965年)創建の豊受(ゆたか)稲荷神社。神仏混淆の稲荷神社で、かしわ七福神の福禄寿を祀っている。福絵師「あず之助」氏による手書きの福絵付き御朱印が人気とのことで、季節によって異なる絵柄の御朱印を戴くことができる。


開けた場所に神明神社が鎮座していた。所在地は柏市富里であるが、元々この地は豊四季の一部だったという。
慶長年間に江戸幕府による軍馬育成を目的とした放牧地として「小金牧」と「佐倉牧」が成立。明治に入ると開墾対象となり、開墾順に「初富」「二和」「三咲」「豊四季」「五香」「六実」「七栄」「八街」「九美上」「十倉」「十余一」「十余二」「十余三」と名付けられた。開墾事業により、それまで武士だった人などが職を求めて入植し、豊四季に移り住んだ。その住人達の拠り所として創建されたのがこの神明神社だという。


柏駅前が近づくにつれ、街道にも人通りが増えてきた。そんななか辿り着いたのが柏神社である。
寛文元年(1661年)、八坂神社として創建し、明治21年(1888年)に近くにあった羽黒神社を当地に移設。昭和49年(1974年)に社名を柏神社に変更した。ちょうど南柏駅前あたりから柏神社前までは小金牧の一つ・上野牧が広がっており、水戸街道はその中を突っ切る形で延びていた。牧は野馬土手で囲まれ、街道の出入口には木戸が設けられていた。

本日はここまで。柏駅から常磐線に乗って帰宅した。