名所江戸百景 第32景 柳しま 1857年(安政4年4月)(ブルックリン美術館所蔵) |
■作品概形
「柳しま」は墨田区にある北十間川と横十間川の交点を描いた作品である。
北十間川は絵を左右に横切るように描かれており、東(絵では右)に辿ると中川(現在は旧中川)に流れ着く。西(絵では左)に辿ると源森川を経由して隅田川まで行くことができるが、当時は隅田川の氾濫が多かったとこもあり、源森川と北十間川の間には堤が築かれていた。これが「小梅堤」だったりする。
横十間川は大横川に通じる水路で、どちらも舟運において重要な役割を担っていた水路だったことが絵からもわかる。
ちなみに川幅が十間(18m)であったことから、北十間川・横十間川という名前がついている。北十間川は本所の北側を流れ、江戸切絵図の北端でもあった。横十間川は江戸城に対して横向きに流れているためその名がついている。
絵の右端には、柳島橋が描かれており、その袂には、二つの建物がある。
道を挟んで手前にあるのは「法性寺(ほっしょうじ)」。江戸切絵図を見ると、横に「妙見」と添え書きされている。
法性寺の本尊は「北辰妙見大菩薩」であり、「柳嶋の妙見さま」として有名であった。
特に芸能や芸術に従事する人の信仰が厚かったようで、市川左団次(明治座の初代座元)や中村仲蔵(古典落語「中村仲蔵」の元ネタにもなった役者)などが開運したという話がある。
中でも、葛飾北斎が信仰していたことで知られ、彼が当初「北斎辰政(ときまさ)」と名乗っていたのは、北辰妙見信仰によるものと言われている。
柳島橋の袂、道を挟んで奥にあるのは「橋本」という高級料亭である。
橋本は若鮎が有名な料亭で、この「柳しま」が春の部に入れられているのは、若鮎が春の季語であるからという説もある。
橋本は「橋本又兵衛」という正式名称?だったため、柳島橋は「又兵衛橋」と呼ばれて親しまれていたという話もある。
絵の奥には、筑波山が描かれている。
実際の位置はより東側(画面右)なのだが、広重の構図センス的にはこの位置がベストという判断だったのだろう。
田園風景の中にそびえる筑波山の出で立ちは、なかなか迫力があるものである。
■現在の「柳しま」
この絵が描かれた辺りには「向島」「京島」など、「島」とつく地名が点在する。
この辺りは河川の氾濫に悩まされた土地だった。その中でも比較的常時水に浸からない土地には人が住居を構えるようになり、「〜島」という集落となった。
柳島もそんな集落の一つであったが、1930年から31年にかけての本所区の再編により、行政町名としての「柳島」は消えてしまった。
そもそもこの辺りの風景は関東大震災を期に大きく変わってしまった。
芥川龍之介が昭和2年に出版した「本所両国」という著書の「柳島」という章には次のような記述がある。
名高い柳島 の「橋本」も今は食堂に変つてゐる。尤 もこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども磨 り硝子 へ緑いろに「食堂」と書いた軒燈 は少くとも僕にははかなかつた。
もう一つの観光スポット法性寺についても、現在はコンクリートに囲まれた状態となっている。
この地域は戦後、住宅の延焼が危惧されたため、広域避難地域として区画整理されることとなった。
住民の移住が求められたが、地元を離れたくない住民が多くいたため、法性寺の敷地内にマンションを建設し、コンクリートで囲むことで、燃えにくい住居を確保したという経緯があったためである。
北辰妙見についても、お堂の中に安置されており、法性寺は非常に近代的な印象を受ける寺となっている。
境内には北斎関連の資料がいくつか置かれており、寺を挙げて北斎を推している様子が窺える。
川の左にある木が生えているあたりが法性寺、水色の橋の奥に隠れているのが現在の柳島橋である。
俯瞰から風景を描くという広重版画の特徴が如実に表れていることがわかる。
現在ではこの一帯は住宅街や団地となっており、参拝や食事目当てで訪れる人はほとんどいない。
むしろ近くのオリンピック(スーパー)を利用する車と人の往来が多く、一定の賑わいを見せている。
また、柳島橋の少し西、十間橋は北十間橋の水面にスカイツリーが映る「逆さスカイツリー」の名所として、プチブーム到来中である。
流行り廃りは移り変わるもの。とはいえ、流行の遷移をこんなに近くで感じることになるとは、妙見様も100年前には思わなかっただろう。
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