満月の夜に自分の影が伸びるのを最後に見たのはいつだろうか。思い返してみると、かつてそのような経験をしたこと自体無いかも知れない。
「猿わか町夜の景」は道行く人々のはっきりと地面に反射している様が描かれている。こんなにも明瞭に影が描かれるのは、満月の夜だからという理由だけではないだろう。道の両側から光がこぼれてくるのだ。
猿若町のあけぼの
1811年(文化8年)の「文化江戸図」より、浅草寺北東のエリアを抜粋した。
注目して欲しいのは、中央下側にある「●小出シナノ」の文字である。
これは「小出信濃守の下屋敷」を表す。
年代的に小出信濃守=小出英筠(こいでふさたけ。園部藩主。就任期間:1775年(安永4年)〜1821年(文政4年))を指すのであろう。
この下屋敷がある場所をよく覚えておいて欲しい。
そしてこれが1859年(安政6年)「安政江戸図」より同様の場所を抜粋したものである。
小出信濃守の下屋敷だったあたりを見てみると、なにやら2×3のスペースに区切られた土地が出現している。
何を隠そう、これが「猿若町」である。
猿若町が成立したのは1842年(天保13年)。
丁度その頃は、水野忠邦が天保の改革を押し進めていた時期であった。
天保の改革は倹約令を敷いて幕府の財政を立て直そうというものであった。
歌舞伎や芝居の類いは町人の贅沢と見なされたため、幕府から様々な圧力をかけられていた。
そんな最中、1841年(天保12年)、堺町(現:人形町辺り)で歌舞伎を興行していた「中村座」が失火し、全焼。古浄瑠璃の薩摩座などの芝居小屋をも巻き込んだ。この火事は堺町の隣、葦屋町まで広がり、歌舞伎の市村座、人形劇の結城座も被災した。
この火事により、罹災した芝居小屋は同じ場所に再建を試みるが、幕府から禁止命令が出てしまう。幕府としては、これを期に町人の贅沢の一つである芝居鑑賞を制限すべく、芝居小屋を城下から一掃することを考えたのだ。
そこで人形町よりも郊外の浅草聖天町にあった小出信濃守の下屋敷を収公し、芝居小屋の移転を命じた。
この江戸における新たな芝居小屋の拠点は、江戸歌舞伎の創始者であり、中村座の創始者でもある猿若勘三郎(初代中村勘三郎)から名前をとって「猿若町」として成立した。
賑わう猿若町
猿若町が成立した翌年の1843年(天保14年)、水野忠邦が老中を罷免されると、猿若町は盛り上がりを見せ始める。
当時猿若町に軒を連ねていたのは、以下の小屋である。
中村座:
江戸歌舞伎の創始である猿若座が元となった座。
中村勘三郎でおなじみの「平成中村座」の前身となる。
市村座:
京で活動していた村山又三郎が江戸で村山座を興行。その後買収され市村座となる。
森田座(守田座):
木挽町から移転。資金難であることが多く、控櫓(代興権を持つ座)である河原崎座が代興することも多くあった。
歌舞伎公演でよく見る「黒ー柿色ー萌葱」の定式幕は、守田座が発祥。
この中村座、市村座、守田座は、江戸町奉行所により興行が認められた芝居小屋であり「江戸三座」や「猿若三座」と呼ばれた。
また、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座も猿若町で興行を行っていた。
当時猿若町に軒を連ねていたのは、以下の小屋である。
中村座:
江戸歌舞伎の創始である猿若座が元となった座。
中村勘三郎でおなじみの「平成中村座」の前身となる。
市村座:
京で活動していた村山又三郎が江戸で村山座を興行。その後買収され市村座となる。
森田座(守田座):
木挽町から移転。資金難であることが多く、控櫓(代興権を持つ座)である河原崎座が代興することも多くあった。
歌舞伎公演でよく見る「黒ー柿色ー萌葱」の定式幕は、守田座が発祥。
この中村座、市村座、守田座は、江戸町奉行所により興行が認められた芝居小屋であり「江戸三座」や「猿若三座」と呼ばれた。
また、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座も猿若町で興行を行っていた。
そして現在
「猿わか町夜の景」をもう一度みてみよう。画面右サイドには手前から「森田座」・「市村座」・「中村座」が並んでいる。
芝居小屋であることを示す「櫓」が各座に掲げられている。
一大芝居町として賑わった猿若町であるが、明治初頭の政府から移転命令により、小屋は次々と町を離れていった。1892年(明治25年)に市村座が離れたのを最後に、猿若町の芝居町としての役目を終えた。
猿若町自体は、明治以降「浅草猿若町」と名前を変えたが、1966年(昭和41年)の住居表示制度により、「浅草」や「花川戸」にまとめられた。
現在の猿若町は下町風情がわずかに残る住宅街といったところだろうか。浅草寺周辺からは程よく離れているため、観光客の姿は皆無といってよい。
猿若町のメインストリート上を中心に左のような旧町名を示した看板が立っている。町名の下には小さいながら、その場所にあった芝居小屋の説明が記されてる。
市村座跡地には「江戸猿若町市村座跡」と彫られた碑が立てられていた。
少し前までは守田座跡地にも同様の碑があった。
しかし石碑を管理していたであろう企業(株式会社櫛原)が、2013年2月に倒産。その後石碑は会社の作業場もろとも消失し、現在では駐車場と化している。
(参考:不景気.com | 東京の皮革類卸「櫛原」が破産開始決定受け倒産)
そんな現在の猿若町だが、年に一度かつての賑わいを取り戻す瞬間がある。
毎年5月に行われる浅草神社の例大祭、「三社祭」である。
氏子四十四町会の一つ「猿若」として、旧猿若町が一丸となって神輿を担ぐのである。
そんな三社祭の日に写真を撮ってみた。
普段は人気のない猿若メインストリートに人が集まってきた。これから神輿を担ぐのであろうヤン衆共が、鉢巻きを受け取りつつ、久々に集まった顔なじみと挨拶を交わす。
町は少しずつ変わっていき、そこに属す人も付き合い方も少しずつ変わっているはずだが、なぜか下町風情は不変なもののような気がしてならない。
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