秩父巡礼3日目は、十九番札所・龍石寺からスタート。
六地蔵と中心仏が柔軟運動を見守ってくれた。
歩き始めると「安春地蔵菩薩」なる祠が見えてきた。遠目に見ると、幟などの装飾がカラフルな地蔵堂だった。
中には大小2体の延命地蔵が祀られていた。奉納されたのは平成6年とまだ新しく、当時77歳と75歳の奉納者夫婦の名前が記されていた。
荒川を渡る旧秩父橋に到着。埼玉県の有形文化財に指定されているこの橋は、昭和6年竣工の三連コンクリートアーチ橋。隣接する(現)秩父橋の塔とケーブルを臨む風景が、絵画的な空気をつくっている。
前回紹介した十七番札所・定林寺と同様、「あの花」の劇中に何度か登場する舞台となっており、聖地として人気の場所でもある。
巡礼古道時代には秩父橋のような立派な橋はもちろん無く、現存しない川沿いのルートがあり、より上流で川を渡った。現在では秩父橋を渡って上流方向へ台地を上がるルートがあるのだが、私が訪れたときには地滑りで通行止めとなっていた。
迂回路を進み、しばらく歩くと寺院入口で青面金剛らしきものと、江戸時代の無縫塔(僧侶の墓)が出迎えてくれた。
二十番札所・岩之上堂は、荒川河岸の崖上に建っている。しかし、その参道入口はそれよりも高い位置にあるので、初めて見る岩之上堂の姿は本堂の屋根と庭が広がる風景だ。
堂主が僧侶ではなく一般の個人というのも珍しい。
ここからの荒川西岸に沿うように辿るルートは「寺尾みち」と呼ばれる古道である。川沿いの少し高い位置を行く道で、比較的歩きやすい。
21番までは10数分程で着くような距離だが、途中には道標石が複数あった。左の写真の石は「廿番 ひだり」と刻まれており、道標としての役割を果たしているが、よく見ると複数名の戒名らしきものも併記されており、墓石に転用したのかされたのか気になるところである。
二十一番札所・観音寺の本堂は比較的新しい造りのように見える。
矢之堂や矢納堂とも呼ばれ、ヤマトタケルや行基、平将門にちなんだ矢に関する伝説が残されている古刹であるが、大正12年に火災により消失し、再建されたものである。本尊の聖観音はこの火災から免れたので、以来「火除け観音」と呼ばれるようになったという。
さて、実はこの先のルートは悩みどころなのである。22番札所に向かうルートの途中に、江戸期と明治期、時代の異なる2つの道が存在するのだ。
古い方のルートは、21番→(長尾根みち)→(旧)22番→(長尾根みち)→23番と、その名の通り尾根沿いの道を進むルートであった。
しかし22番札所が明治末期に荒川沿いの崖上に移転してしまったため、21番→(寺尾みち)→22番→(長尾根みち)→23番と辿らざるを得なくなってしまった。
今回は素直に渡された引導に従ってみよう。
江戸巡礼古道との分岐点を見送り、明治巡礼古道・寺尾みちを進んでいく。この日も徒歩での巡礼者を何人か見かけたが、江戸巡礼古道はおろか、明治巡礼古道に足を踏み入れる人もほとんどいなかったように思う。
江戸巡礼古道と分かれた巡礼道は、県道72号に沿って進んでいく。途中道標石と明治巡礼古道の案内板、巡礼道のプレートがひっそりと佇む場所で、県道を外れる。
この後再び県道と合流することになるため、多くの人が明治道を進まない。案内板が薮の方向を指し示しているのも問題かもしれない。
田んぼの間を縫うように進んでいく。季節は丁度稲刈りのシーズンで、所々に藁を干している様子を見ることができた。
藁の干し方は地域などによって異なるが、この辺りの干し方は、最も一般的な「稲架掛け」の部類に入るだろう。
整然と並ぶ稲藁が、自然と人間のつながりを表しているようで感慨深かった。
札所22番・童子堂に到着。
この地に移転してきたのは1910年(明治43年)。茅葺きの仁王門には特徴的な格好をした大正時代に作られた仁王像が鎮座している。地元の有志が作ったもので、芸術的な彫刻が施されている訳ではないが、味のある作品となっている。
時間はまだまだ午前中。巡礼はまだまだ続く。
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