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2018/01/24
【歩き旅】大山街道 Day5 その② 〜境界をゆく〜
長津田宿を発ちしばらく進むと、何度目かの国道246号。この道沿いに進んでいくと、左側の森の中から子供の声が。バーベキュー場とアスレチックを併設する「フィールドアスレチック横浜つくし野コース」に集まっているようだ。
旧道はその先の宇佐美石油の脇に入る細い道である。この道が東京都と神奈川県の堺になっている。この細い道は国道246号を挟んで反対側にあるので、少し戻って歩道橋で渡る。住宅街の間を縫うように坂を上ると見晴らしの良い場所に出る。
ここは左右を崖に挟まれており、その形状から通称「馬の背」と呼ばれる。町田市街を一望でき、天気の良いときには大山を臨むこともできる景勝地である。
東急田園都市線すずかけ台駅を越えると、南つくし野こうま公園がある。馬の背にちなんでなのか馬のオブジェもあったりする。
この先国道246号沿いは左手に東京工業大学すずかけ台キャンパスが広がる。その先右手に町田南つくし郵便局があり、その脇に町田道祖神があったようだが確認しそびれてしまった。
町田道祖神から国道を挟んで反対側にあるのが辻地蔵。 この先に「町田市辻」という交差点があるが、ここが大山街道と浜街道(絹の道)の交点、で「長津田辻」と呼ばれていた場所である。元文5年(1740年)建立の地蔵は元々その辻に立っていたのだが、国道246号の工事の際に現在地に移設された。
辻地蔵の隣にあるのが昭和26年(1951年)銘の横浜道祖神。元々地蔵と同じ場所に置かれていたものを移設したのだろうか。
町田市辻の交差点を越えて脇の旧道へと進む。しばらく行くと大ヶ谷戸バス停があり道が交差している。ここに文久3年(1863年)建立の大ヶ谷(おおがやと)庚申塔がある。大山道と交わるのは鎌倉街道上つ道(戸塚道)。交通の要衝であったこの地には古くは大ヶ谷宿という小規模な宿場があったという。
街道は下り坂になり日枝神社を越える。その右手あたりに圓成寺がある。天正年間の創建とされ、北条氏綱の家臣で当地の領主であった山中修理亮貞信が出家し開創したと言われている。天正年間は北条氏が関東で勢力を拡大していった時代であり、豊臣秀吉による小田原城攻めが天正18年(1590年)に行われていたことを考えると、そういった時世での平穏を祈願するための出家だったのだろうか。
街道が再び国道246号と合流する地点に五貫目道祖神がある。安政3年(1856年)建立で、元々この先の境川手前に置かれていたものを移設したものである。かつて置かれていたのは鎌倉方面へ向う道との分岐点に当たる場所であった。
ちなみにここ横浜市瀬谷区五貫目町は、江戸期の年貢の石高が五貫目(1貫=3.75kg)と定められたことによる地名である。
境川を渡ると大和市域に入る。そして下鶴間宿の区域となる。その入口にあるのが観音寺である。武相卯歳観世音札所の第一番であり、本尊は十一面観音である。かつては「赤門寺」と呼ばれ、遠方より参拝する人もいたという。
観音寺はかつて「金亀坊」と称されていたようで、境内の金亀坊稲荷にその名を残している。
観音寺のすぐ先には大山阿夫利神社御分霊社がある。創建年代は不明とされている。大山詣は険しい登山を伴うものだったので、年配の方や体力のない人などはこの分社を訪れ参拝したのであろう。
入口前には「新田軍の鎌倉進撃路」と題された地図が掲げられている。どうやらこの神社がある一帯は高下家の所有であり、高下家は新田義貞に代表される新田氏の末裔にあたるようだ。先程の観音寺も元々は高下家の敷地で、新田氏の鎌倉攻めの際に犠牲になった武士の墓にあった供養碑があるという。
近くには新田義貞が太刀を掲げる像が置かれていた。元弘3年(1333年)5月8日に鎌倉幕府討伐に向けて上野国新田庄(群馬県太田市)で挙兵した義貞は、多くの加勢を受けつつ南進し、わずか10日余りで鎌倉にたどり着く。勢いに乗って鎌倉を取り囲み三方から総攻撃するも失敗してしまう。その後本陣を稲村ヶ崎に移動するが、北条軍の防衛戦は固く先に進めそうにない。そんな折、義貞は黄金の剣を海に投じて龍神に祈願した。すると龍神が呼応して潮が引いていった。海上から弓矢で狙っていた幕府軍の船が沖へと離れていった隙に義貞は稲村ヶ崎突破を果たし、鎌倉幕府討伐を果たしたのであった。
という伝説の一幕を再現した像である。
門の外には「相洲鶴間村宿」と書かれた道標があった。「是より東 江戸十里」「是より西 大山七里」と刻まれている。いつの間にか大山街道 歩きも半分終えていたのだと気付かされた。
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