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2018/06/21
【歩き旅】大山街道 Day8 その② 〜大山攻略〜
下社から上社のある大山山頂へは登拝門を潜って石段を登っていく。明治初年の神仏分離までは、大山では夏の山開き(7月27日〜8月17日)の時期のみ登拝が許されており、それ以外は門が閉ざされていた。
門の鍵は古くから東京日本橋のお花講が管理しており、今でも7月27日の山開きにはお花講が扉を開ける慣習が残っている。とはいえ現在では通年に渡り登山が可能であり、登拝門は常に開いている。そこで、失われてしまったこの門の意義を尊重する形で、片側を閉ざした「片開き」の状態で門を設置している。現在の門は平成24年(2012年)に再建されたものである。
登拝門の先には「本坂」と呼ばれる急な石段からなる坂が続く。手すりを頼りに登っていくと、少々開けた場所に「阿夫利大神」と刻まれた石碑が建っている。
この場所は白山神社があった場所で、加賀白山神社を勧請したものと考えられるが、大山寺開山以前からあったという。修験僧の修行の一つとして、白山神社を拝するという過程があったという。
六丁目から「千本杉」と呼ばれる杉に囲まれた山道をゆく。昭和20年代の造林によって作られたものだろうか。八丁目付近には「夫婦杉」と呼ばれる樹齢600年以上の巨木がある。
十四丁目付近からは、足元に「ぼたん岩」を見ることができる。球状の岩がシワのように重なって、牡丹の花のように見えることからそのように呼ばれる。タマネギ石とも呼ばれるこの現象は、岩石の風化による現象だという(参考:平塚市博物館|東丹沢のタマネギ石)。
十五丁目付近にあるのが「天狗の鼻突き岩」。写真ではわかりにくいが、岩の左上あたりいに拳大の深い穴が空いている。
十六丁目は蓑毛方面へ下る道との分岐点があり、石碑が建てられている。1716年(享保元年)に新吉原町中によって建てられたもので、高さは3m60cmある。
石碑の正面には「奉獻 石尊大権現 大天狗 小天狗 御寳寺」と刻まれている。廃仏毀釈以前には、大山の山頂付近に石尊社が設置され、不動明王を石尊権現として祀っていた。さらに奥宮には大天狗、前社には小天狗が祀られており、山岳信仰や修験道の色が強かったことが伺える。
さらに登っていくと周りの植生が少し変わってきた。太い幹の木は少なくなり、空が開けてきている。この頃には大学生のグループに颯爽と抜かれていくくらいの体力だった。
二十五丁目まで登ってきた。ここはヤビツ峠から来るルートとの合流ポイントとなる。ヤビツ峠は丹沢ハイキングの起点にもなる主要地点で、最近ではサイクリングやツーリングで訪れる人も多い。
二十七丁目で銅の鳥居を潜る。明治34年(1901年)に東京・銅器職講によって奉納された。
二十八丁目には石鳥居。寛政10年(1798年)に江戸町火消「れ組」の御供物講が奉納し、明治21年(1888年)に三度目の再建を行ったものである。その奥に見えるのが前社で高龗神(たかおかみのかみ)が祀られている。そろそろフィナーレの予感がしてきた。
阿夫利神社上社に到着。上社には大山祇大神が祀られている。ここでは様々なルートから集結したハイカー達が一同に集結しており、本社横の食事処で休憩している人も多かった。
さらに登れば奥の院。ここには大雷神(おおいかづちのかみ)が祀られている。
というわけで大山山頂(標高1252m)に到着。これにて大山街道青山通りを無事踏破となった。
大山山頂からの風景。天気は良かったが少々もやがかかっていたので、遠くまで見晴らすのは難しかった。
それでも江戸時代に多くの町人が歩いたであろうルートとほぼ同じ道筋をたどり、往時の人々がどのような気持ちで大山を登り、そしてこの風景をどんな気持ちで眺めていたのかと考えると感慨深いものがある。
気軽に訪れることができる霊峰であるからこそ、一度ならず何度も登拝した信心深い講中もあったであろう。多くの人々の拠り所としての、大山の存在を五感で確かめた旅であった。
だが、下りもある。
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