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2020/05/14

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day3 その②


右手の高い壁は陸上自衛隊習志野駐屯地のもの。明治5年(1872年)に陸軍練兵所がこの場所に設置されたことに始まる。


習志野駐屯地には習志野演習場が併設されている。陸上自衛隊第一空挺団が所属することで有名で、1月に行われる降下訓練はじめには多くの見学者が訪れるという。


演習場の境で船橋市から八千代市へ突入する。さくら八幡公園の一角に有縁無縁仏が置かれていた。卒塔婆と献花は比較的新しい。


県道57号との分岐点、ガソリンスタンドの前に享和3年(1803年)建立の血流地蔵道の道標がある。八千代市吉橋にある貞福寺の本尊・血流地蔵尊への案内を示したもので、天文6年(1537年)の吉橋城落城の際、この地蔵を本尊として貞福寺を建立したと伝わる。長年頭しか出てない状態で埋まっていたが、平成12年(2000年)に掘り起こされ、分断していた下の部分も発見された。


同じ交差点の街道を挟んで向かい側には成田山の道標がある。「成田山是より七□ き□□道吉橋 一リ塚□□」と刻まれているという。真ん中に修復跡がある。


新木戸八幡神社に立ち寄る。神社の創建は不明だが、境内には多くの石仏が並んでいる。中でも子安講が建てた7基の子安観音像(写真奥)は、天保3年(1832年)のものから平成19年(2007年)と最近のものまである。「おいぬ」「おきぬ」など各像に名前が付いているのも珍しい。


その少し先、街道沿いに大量の石碑が並べられている一角がある。馬頭観音コーナーには馬のイラスト入りの馬頭観音が置かれていた。日露戦争で出征した馬の墓を兼ねているのだろうか。


こちらは出羽三山碑コーナー。千葉県は出羽三山講(奥州講)が盛んな土地で、特に八千代市では今でも集落ごとに奥州参りを行っていたりする地域もあるという。女性が中心であった子安講に対して、遠征を伴うこともあり奥州講は男性が中心で行われる。


奥には神明社があり、この石碑群が神明社の境内にあったことがわかる。


工業団地入口の交差点に慶応元年(1865年)建立の「おたきさん道標」がある。船橋市金杉にある御滝不動尊(金蔵寺)への道を示したもの。


路傍の地蔵に目が留まった。実はこの右側に一本松石造物群があったのだが、一般の墓だと思いスルーしてしまった。佐藤家墓地の中に佐倉藩士小柴宣雄と長男小次郎の墓があるという。小柴小次郎は佐倉藩を脱藩して会津戦争に参加し、慶応4年(1868年)に戦死した人物。


路傍に十九夜塔と子安塔がまとめられている。この辺りの地域の子安講の信仰の篤さが伺える。幕末の名主・小林左圓司を祀った筆子塚が隣りにある。


庚塚バス停の前に道祖神が祀られている。ここが大和田宿の西の端にあたる。大和田宿は西の大和田村、東の萱田村からなる宿場。最盛期には旅籠が約10軒、一ヶ月に1400人(うち成田詣の客が900人)の宿泊客でにぎ


寛永3年(1626年)の建立とされる長妙寺に立ち寄る。徳川家康の側室・お万の方が開設した飯高壇林(匝瑳市飯高)へ向かうため、江戸から一泊二日の行程でちょうど中間地点であることから、宿泊寺としても機能していた。

また境内墓地には八百屋お七の墓がある。お七は八千代市の生まれとされ、天和3年(1683年)に放火の罪で火あぶりの刑となった人物。放火のきっかけとなった恋模様を描いた創作が、江戸時代から現代に至るまで歌舞伎、映画、歌謡曲など様々な形で取り上げられているので、知っている人も多いはず。個人的には坂本冬美の『夜桜お七』が好き。


明治天皇行在之所碑がある。習志野原での天覧演習の際、ここにあった大沢家で休憩したというが、現在は家はなく碑が残るのみである。


その先の脇道の入り口に、草に埋もれた道標がある。天保4年(1833年)の道標で「可やた山 いつ奈大権現道 是より十二丁」と刻まれているという。飯綱大権現は長野県飯綱山を発祥とする修験道の神で、この道標はそれを祀った萱田飯綱神社への道を示したもの。


薬師寺へ立ち寄る。由緒がわからず、境内も不思議なまでに開けていて、ほぼ廃寺同然のような状態にみえた。


ここでも境内に女人講の石碑が多数あった。

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