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2021/04/11

【歩き旅】山の辺の道 Day1 その③

 
柿本人麻呂句碑を越えると、少し上り坂となる。その途中に数多くの石仏が置かれていた。写真上段にある一際大きい石仏は、鎌倉時代に作成されたものだという。この裏手に公衆トイレと中山寺跡がある。


坂を登りきると遊具が併設された広場があるが、ここは大和(おおやまと)神社御旅所。大和神社は日本最古とも言われる神社で、遣唐使もこの神社で祈願してから旅立ったという。例祭である「ちゃんちゃん祭り」では、ここから約2km西にある本殿からこの御旅所までを往復する渡御が催される。
広場の一角には歯定神社がある。医療の神・少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られていることから「歯の神」として崇められている。


道は念仏寺にぶつかる。天平17年(745年)行基僧正により開創したと伝わり、15世紀頃までは旧中山寺の一坊であったという。本尊の阿弥陀如来は足首を見せている珍しい作りとなっている。


門前には目印にもなっている、ずんぐりむっくりな一休像。右折して細い道へと進んでいく。


再び住宅地の合間を進み、左手に五社神社が現れる。創建由緒は不明だが、かつては五社の森という広大な敷地を有していたという。明治の合祀令により先程の歯定神社と合祀され、昭和期に復社されたものだという。名前に反して、境内には武甕槌命、経津主命、天児屋命、比売神の春日四神が祀られている。


萱生の集落に差し掛かるところに、嘉永元年(1848年)建立の大神宮常夜燈と猿田彦大神碑が置かれていた。萱生は大和神社の氏子にも数えられるが、例祭・ちゃんちゃん祭りを先導するのが猿田彦大神であり、それに関連してこの碑が置かれているのだろうか。


木造の古い家並みの合間を縫うと、池のような場所に出てくる。この池は西山塚古墳の環濠である。西山塚古墳は6世紀前半に築造されたと考えられている前方後円墳で、第26代継体天皇皇后の手白香皇女の真稜として有力視されている。


集落を抜けて再びの田園風景。道中の地蔵に説明板があった。村人が池堀りをしていると偶然この地蔵を発見。お寺へ移動しようとすると、村人の足腰に痛みが。この場所で祀ったところ痛みが消えたことから、「腰痛治しのお地蔵さん」として地元で親しまれるようになったという。


乙木集落を縦断したところに夜都伎(やつぎ)神社がある。かつて乙木には春日神社と夜都伎神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内集落の十二神社の三間塚池と交換し、春日神社1社とした後、名前を夜都伎神社に変更した経緯がある。そのため、祭神は先程の五社神社と同じく春日四神となっている。春日大社から古くなった社殿や鳥居を60年ごとに下賜される伝統があり、現在の本殿は明治39年(1906年)に春日大社から移築されたものである。
今回は参拝せず、神社がある宮山を迂回するように進む。


神社を迂回している途中にだいぶ摩耗している地蔵があった。由緒はわからなかったが、調べてみると乙木・園原・杣之内集落の境界がここだった。


道は徐々に山に近づいていき、白山神社の脇からは石畳の山道へと突入する。少し登ると今度は土道の下りとなる。果樹園と竹林の脇を抜けたところに謎の高台があり、ここに内山永久寺跡の案内板と休憩スペースがある。
さらにその先にあった説明板によると、内山永久寺は永久年間(1113〜1117年)に建立された寺院。石上神宮の神宮寺として広大な敷地を有する寺院だったが、次第に勢力は衰え、廃仏毀釈により廃寺となった今では、浄土式庭園の跡である池が残るのみとなっている。写真の石碑に刻まれている「萱御所跡」とは、後醍醐天皇が幽閉されていた花山院を抜け出した際、一時的に身を潜めていたことによるという。


木堂集落を抜けると、道標は森の中へと案内していくが、この森は石上神宮外苑公園の一角。右手に会員制の釣り堀を見ながら進んでいくと、整備された境内へと辿り着く。ここが『日本書紀』に伊勢神宮と並んで記載された最古の神宮・石上神宮である。
御神体として神剣韴霊(神武天皇が高倉下から授けられた剣)、天璽十種瑞宝(鎮魂の儀式に利用する神宝)、布都斯魂剣(須佐之男命がヤマタノオロチを倒す際に使用したとされる剣)が祀られており、明治時代まで拝殿の奥の禁足地に埋められていた。
第72代白河天皇が永保元年(1081年)に寄進したという伝承がある拝殿は、実際は鎌倉時代初期に建立されたものと考えられているが、拝殿として現存する建築物としては日本最古のものとされ、国宝にも指定されている。


楼門は文保2年(1318年)建立とされる重要文化財。正面の額に書かれている「萬古猶新」之文字は、山縣有朋の筆によるもの。


境内には東天紅や烏骨鶏などのニワトリが約30匹放し飼いにされている。ニワトリは夜明けに鳴いて時を告げることから、神の使いとして親しまれている。


本日の行程はここまでとし、最寄りの天理駅から宿を取っている奈良駅へと向かう。途中、市名の由来にもなっている天理教本部の前を通る。天理市民の4分の1程が天理教関係者とされ、市街地のほぼ半分が天理教関係の施設となっている。天理駅に向かうまでに法被を着ている人に数多くすれ違ったし、商店街では何人もの人に挨拶された。ちょっとした異世界感があった。

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