4日目は川中島駅よりスタート。川中島駅交差点で街道へ復帰する。
少し進むと左手に新田共同井戸がある。明治10年台に新田組二十三戸の共同井戸として採掘されたもの。昭和30年(1955年)に上水道が整備されるまで常用されていた。
丹波島交差点の手前に「浄生庵」の扁額がかかったお堂があった。これは元禄年間に丹波島宿の問屋を営んでいた柳島市郎左衛門によって創建された観音堂(浄生庵)で、祠の中には観音菩薩と延命地蔵尊が安置されている。
丹波島交差点を直進すれば丹波島宿となる。ここに宿場の案内板があったが、水準点までプロットされているのは珍しく感じた。
案内板の先に宿場の鎮守・於佐加神社がある。寛文2年(1662年)に諏訪河原より移設された神社で、境内には秋葉社、弥栄社、三峰社など9社が祀られている。街道は神社前で90度折れ、枡形になっている。
丹波島宿は慶長16年(1611年)、それまでの松代道がメインルートだった北国街道が矢代の渡し経由に変わった際に開設された宿場で、この後に控える犀川の渡し手前の宿場ということで賑わいを見せた。幹線道路からも外れたことから、現在では閑静な住宅街となっている。
宿場中程に高札場が設置されている。これは平成23年(2011年)の北国街道丹波島宿開設400年を記念して、当時と同じ場所に復元されたものだという。
高札場の隣には元問屋場の柳島家がある。立派な松を従えた冠木門の門前には「明治天皇丹波島御膳水」の碑が置かれている。
問屋跡の数軒先には「本陣」の表札を掲げた門がある。ここが丹波島宿の本陣で、問屋と同じく柳島家が務めていた。柳島家は元々甲斐武田家の家臣であり、北国街道開設の際に柳島家3代目の柳島太郎左衛門政雄が丹波島宿の開設に携わり、本陣を委任されている。
本陣向かいの細い道が旧松代街道で、松代藩の藩庁でもあった北国東往還(松代道)の松代宿へと向かう。以前紹介した北国東街道は善光寺の東側を迂回するルートを採るが、松代からこの道を利用して丹波島を経由すれば、善光寺へ向かうことができたというわけである。
宿場の東側は再び枡形になっており、北側へと90度折れる。右手の蔵造りの建物の屋根に小さい飾りがあるが、これは「鍾馗(しょうき)様」と呼ばれるもの。一説には鬼瓦によって跳ね返された邪気を鬼より強い鍾馗によって防ごうという考えから、街道の入口や家に設置されるようになったという。屋根に設置するものは近畿地方や中部地方で多く見られるといい、丹波島宿では5軒ほどの民家で設置されているのを見ることができる。
街道は犀川の土手に差し掛かる。ここに丹波嶋の渡し碑がある。かつては1kmほど下流に設置された「市村の渡し」がこの辺りの主要な渡し場だったようだが、北国街道の整備や犀川の洪水や増水に伴う流路変更に伴い、上流の丹波島の渡しの整備が進んだ。犀川の水かさが増してくると、年平均60日もの川留めが発生するようになり、難所としても知られていた。
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