3日目は羽犬塚宿からスタート。
六所宮前交差点を東に折れると、参道がありその先に六所神社がある。承平年間(931〜935年)の創建とされ、筑後市大字熊野にある坂東寺から勧請されたという。
境内には双体恵比寿が5対並んでいた。正平12年(1357年)の建立で九州最古のものだという。それぞれが男女を模した恵比寿像で縁結び、家内安全、商売繁盛などのご利益があるという。
宿場の南枡形が旧道になっている。クランク状に折れ曲がった道を進むと、山ノ井川にかかる藤島橋のたもとに旧坊津街道の案内碑と種田山頭火の句碑「さうらうとして けふもくれたか」がある。
山ノ井川を渡った辺りが藤島集落だが、その終わりにかつて秋松(藤島)一里塚があった。その場所には「薩摩街道」の道標と一里塚跡の碑があった。
山ノ井交差点で国道209号を横断する。旧下原原集落を抜けた先で花宗川に差し掛かる。花宗川の二本松橋のたもとに種田山頭火の句碑「うららかな 今日の米だけはある」が置かれている。
現在は国道に昭和9年架橋の二本松橋が設けられたのでこの橋は旧二本松橋となる。大正13年の銘が入っていて、シンプルながらセンスを感じるデザインになっている。
そのすぐ先に坊津街道(薩摩街道)の碑が建っている。この場所で道が枡形状に折れ曲がるが、ここが二本松集落入口となる。二本松には久留米藩の年貢の集積場が設置され、近くには役人が宿泊するための茶屋なども設けられた。徴収した年貢は花宗川を使って筑後川港まで運ばれ、その後大型船に詰め替えられて大阪まで運ばれた。
二本松集落の一角に「北 上妻郡 南 下妻郡」と刻まれた碑がある。これは文政2年(1819年)に建立されたもので、この付近がかつては群境であった。上妻郡、下妻郡は明治29年(1896年)に上妻郡、下妻郡、生葉郡の一部が統合されて八女郡になるまで存続した。
植松の集落に入っていくと、ここにも旧坊津街道(薩摩街道)の案内板があった。
源平合戦の際に、平家の残党の多くがこの周辺で討ち取られ、それを弔った場所の一つが「一の塚」だという伝承に基づいている。
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