明暦3年(1657年)創建という神代天満宮。菅原道真がこの地で沐浴を行ったという伝承に基づき、ここに天満宮を建てて菅原道真を祀っている。
安国寺への入り口のところに立像・坐像の地蔵祠があった。街道を外れて安国寺の方へ向かえば、国指定史跡の「安国寺甕棺墓群」がある。弥生時代に九州地方独特の墓制だった「甕棺墓」の実態が判明した貴重な史跡である。
かつては畑だらけだった場所が住宅街になっていて、その合間を街道は進む。府中宿に入る手前、旗崎集落のあたりから西に向かう道は、久留米城と日田を結んでいた日田街道。
桝形っぽくなっている道を抜けてしばらく進み、良山中学校入口の交差点辺りに府中宿の北構口跡があった。府中宿は久留米藩の主要な宿場であったが、久留米城から東に3km程離れている。これは城下に交通が集中して混雑してしまうのを防ぐだけでなく、城下の様子を他藩に知られにくくする目的もあったようだ。
次の交差点に「旧薩摩・坊の津街道府中宿」の説明板があった。薩摩街道の別名でもある「坊の津街道」「坊津街道」は、鹿児島からさらに海沿いを進み、現在の南さつま市坊津町の坊泊へと向かう道を指している。坊津は古くから海外に開かれた港で、鎖国下にあった江戸時代にも密貿易が行われていた。
御井小学校の門の脇に「坊津街道府中宿本陣跡」の説明板が立っている。本陣跡は明治6年(1873年)に御井小学校となったが、現在でも敷地内に本陣で使われていた井戸が残っているという。
小学校の先には筑後国一宮・高良大社の一の鳥居が聳え立っている。承応4年(1655年)に有馬忠頼によって寄進されたもので、国指定重要文化財に指定されている。
府中宿は古くから高良山の門前町として発展していたところに宿場が設けられ、明治3年(1870年)に宿場が廃止される直前には16軒の旅籠があったという。
府中宿の町並み。府中宿は北から上町、中ノ丁、下町に分けられていて、旅籠建築の趣を残す旧家もいくつか点在している。
宿場によくある旧屋号や昔どのようなお店を営んでいたかを示す看板も掲げられていた。
高良大社へ少し遠いので訪問できなかったので、宿場にある高良下宮社をに立ち寄った。下宮社は上宮(高良大社)と同じく履中天皇元年(400年)もしくは白鳳2年(664年)の創建と伝わる。素盞嗚神社、高良下宮社、幸神社が横並びになっていて、素盞嗚神社の通称「祇園社」から「ぎおんさん」の愛称で地域に親しまれている。
宿場を抜けて、高牟礼市民センター前には「田中久重鋳砲所址」の碑と説明板が立っている。久留米城下で生まれた久重はからくり人形師として名を馳せ、発明家・職人として活躍。文久2年(1862年)には国産初の蒸気船「凌風丸」建造にも携わった。評判を聞きつけた久留米藩に招集されて、この地でアームストロング砲を鋳造した。
0 件のコメント:
コメントを投稿