田園風景を抜けて清水の集落に入っていくと、道はかなり狭くなる。更に進むと鬱蒼とした竹林沿いの道となる。ちょうど筑後平野の端っこを進んでいるため山地の入り口のような坂道もあり「面の坂」と呼ばれているそう。とは言え、そういった区間はそこまで長くなく、再び国道443号に合流する。
祠があって3体ほどの地蔵か何かが祀られていた。この裏手は公園のようになっていて最近復元されたという「面ノ上古墳」がある。
県道774号との交点に道標があった。江戸期に建立されたもののようで、「清水寺道」「柳河道」と刻まれている。この追分を北に進めば瀬高町本吉の清水寺に向かうことができる。清水寺は最澄が大同元年(806年)に建立したと伝わる古刹である。「柳河道」は今来た街道筋のことだろうか。
少し進めばコンクリート造の祠がある。こちらも3体の地蔵と思われる。下半分が水色のタイル張りになっていてデザイン性を感じさせる。
コンクリート祠の脇には「三里」と刻まれた石。矢部街道の二里石の説明には「田中吉政が整備した」とあったが、この三里石の説明には、吉政の四男で柳川藩二代藩主である「田中忠政」が父の遺志を継いで一里塚を設置したとある。またこの道は「南関街道」とも呼ばれていたことが記されていた。
尾野交差点を過ぎたところに2基の鳥居が並んでいた。天満宮と祇園宮の鳥居が並んでいて、境内には楼門や拝殿・本殿などもある。
JAみなみ筑後の敷地に山川みかんの巨大モニュメントがあった。旧山川町を中心に生産されている山川みかんだが、みやま市での年間生産量は6,500トン。福岡県のみかん生産量は全国9位だが、その約3分の1を山川みかんの生産で担っている。
みかんモニュメントの横に五輪塔がいくつか鎮座していた。「野町五輪塔群」と呼ばれ、周辺に散在していた五輪塔を一箇所にまとめたものだという。元々11基程あったというが、現在ではっきりしているのは5基のみ。鎌倉時代から室町時代に建立されたものとされる。伝承によれば、平家の落ち武者を供養したもので「平家の塔」との言われもある。
みやま市山川支所(旧山川町役場)を過ぎ、山川中学校の横を進む。中学校の敷地が終わる辺りにお堂がある。日当川地蔵と呼ばれるこの地蔵は、天正7年(1579年)の隈府城(菊池城)主・赤星氏と龍造寺氏のいざこざに由来する。龍造寺氏に対して赤星統家は長男の新六郎を人質に出すが、その後龍造寺氏の拠点である佐賀への呼び出しに応じない統家を使者が訪問したところ、統家が留守だったため長女の安姫を連れ去った。新六郎と安姫は従者とともに処刑され、これを憂いた里人が供養のために地蔵尊を祀ったという。
原町宿の町並み。原町は構口の場所など判然とせず、原町郵便局の辺りにお茶屋が設けられていたという。街道沿いには、牧馬養馬場に関する事業事務を司る「原町馬役場」や宿屋として機能していた「原町小町女郎屋(桜屋)」などがあったというが、遺構として残るものはない。
家を取り壊した跡地のような場所に、仁王像の吽形があしらわれた壁のようなものがあった。下部に「左隈府 右柳河」の道標も兼ねていたが、少し前のGoogleストリートビューを見るとこの場所にこんな建造物はなかったので、最近建てられたものだと思われる。
その少し先に甲山寺多福院があった。元禄7年(1694年)に、先程の道標にもあった清水寺の鍋島隆尚法印によって建立されたお寺。今は無住の寺だが、筑後三十三箇所観音霊場の第二十七番札所に指定されている。千手観音と馬頭観音が祀られ、「原町のお観音さん」と呼ばれて親しまれている。
車両工場手前で右手の旧道に入る。待居川(まてごがわ)を渡るが、この近くの飯江川との合流地点が「要川」と呼ばれ、公園になっている。この辺りが源平最後の合戦地とされ、源氏の大群に成す術なく平家が破れ散った地である。
公園を抜けて再び国道433号に合流し、三峯集落の辺りに「かさ地蔵」がある。江戸時代後期の建立で、地蔵の光背が傘を被った姿に見えるためそのように呼ばれているのではないかという。
地蔵祠の横の茂みの中の碑は明暦2年(1656年)造立の「田尻因幡守種貞」供養塔。田尻氏はこの近くの飛塚城を居城とした土豪だったが、天文年間あるいは永禄年間頃に田尻親種により柳川市の鷹尾城が築かれ、そちらに転居した。種貞については出自が明らかではないが、文禄の役で戦死したと考えられ、この供養塔はその43回忌にあたり造立されたものと考えられる。
九州縦貫自動車道をアンダーパスしたところに四里石があった。柳川札の辻から4里目にあたる。
山川町北関の集落を抜けるところに「松風の関」についての案内板があった。
ここから国道を逸れて未舗装の区間へと入っていく。
飯江川を渡ってしばらくすれば、未舗装区間は終わって舗装された農道のような区間になる。おそらく近隣住民の農作業で農耕車両の乗り入れ等にも使われているのだろう。わずかばかり登り坂になる。
お堂があり、中に複数の地蔵が安置されていた。関所を破り役人に斬殺された旅人を供養するために地域住民によって作られたという「首斬り地蔵」だろうか。関所に設けられた処刑場跡地だという話もあり、ちょっとした心霊スポットとなっている。
その少し先に「松風の関」の碑が建っていた。古代から筑後国と肥後国を結ぶ重要な街道であり、天然の要害で「背戸坂」とも呼ばれていたところに関所を設けたものと考えられる。関所の正確な場所はわかっておらず、関は1つではなく2つあったという説もある。関の名残は「北関」「南関」の地名に残っている。
この木碑から直進するのが旧道のようだったが、藪で道が見えづらい上に大型ハチの襲来に遭ったので、高速道路を跨いで反対側の道を進んでいくことにした。
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