高台に「河原林雄太少尉戦死の地」碑があった。乃木希典率いる官軍十四連隊は薩軍・村田三介の隊と植木で衝突。このとき薩軍は官軍・河原林将校を襲撃し、掲げていた連隊旗を奪っていった。軍旗を敵に奪われることは当時の軍人にとって非常に不名誉なことだったため、これ以来乃木は死をもって償う事も含めて生涯悩み続けたという。
少し進んでファッションホテルの入り口を越えた辺り、右手に放牛地蔵の矢印があった。塚の上に鎮座しているのが件の地蔵のようである。放牛地蔵の説明は以前も記載したが、ここにあるのは36体目のものであった。
野原産業の廃棄物処理施設前で国道3号線に合流する。しばらく国道に沿って進んでいくと「豊前街道旧道」の古びた標柱があるので、ちょっとだけ旧道へ入り、すぐに再び国道に合流する。
旧道から国道に復帰したあたりから「鹿子木」地区となる。鹿子木町交差点の手前に二里木跡の標柱があった。熊本城までだいぶ近づいてきた。
ひたすら国道を南下し、四方寄(よもぎ)集落へと差し掛かる。石塔が2つ並んでいるが、一つ目は庚申塔。青面金剛と童子が刻まれているとのことだが、風化していて全く判別できない。
となりに並ぶ六地蔵はなかなかのサイズ。戦国時代の作で、雲に乗った姿の地蔵尊が半肉彫りにされているそうだが、こちらも判別できなかった。
これらの石塔は御馬下の角小屋の前に置かれていた。角小屋は江戸後期に庄屋や質屋を営んでいた堀内家の住居として建てられた木造建築で、島津や細川など諸大名の参勤交代の休息所としても利用された施設である。肝心の建物の写真を撮り忘れてしまったので説明板のみ。
大窪2丁目交差点を直進し、国道から県道303号へと入っていく。馬々鋏(ばばさみ)バス停の辺りは道の両サイドが高くなっているが、これは加藤清正が整備した切通しの名残りと思われる。
徳王バス停の手前に「一里木跡」の標柱がある。かつてはこの辺りは「一里山」と呼ばれていたという。熊本城下まであと一里。
山伏塚前交差点を過ぎたところに、「山伏塚」と刻まれた石碑があった。この脇の階段の上に山伏塚そのものがあるようだったが今回はスルー。山伏塚は「やんぼしづか」と読む。熊本城が完成した際に他国の山伏に祈祷を依頼し、その山伏が帰路につく際、この付近で殺されたのだという。城の秘密を他国に知られることを防ぐため、当時の城造りではよくあることだったのだという。
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