静かな農村を歩いていると、二本木宿と松崎宿の案内板が突然現れる。これまで北国街道で見てきた宿場でもあったが、二本木宿と松崎宿も半月交代で宿役業務を行う合宿だったようだ。
あまり宿場の入口っぽい場所ではないので単なる村境だった場所なのかもしれないが、説明板の脇には「此れより松崎宿」の榜示杭が立つ。
そこから枡形のように少しくねった道を下ると若宮神社がある。この辺りから松崎宿の入口だったようだ。
松崎宿は、宿の真ん中をえちごとトキめき鉄道妙高はねうまライン(旧JR信越本線)の北国街道踏切が横断する。その先、小さな水路を渡ると町続きで二本木宿へと入る。
三面六臂の馬頭観音。先ほど覚願寺で見たものと似ているような気がする。
その少し先右手に安楽寺がある。松崎宿・二本木宿では本陣を設けておらず、加賀藩はこの寺を休息所として利用していた。そのため、安楽寺庫裡には上段の間が設けられていた。
その先、白山神社手前の民家に明治天皇二本木小休所の碑が建っている。明治天皇御巡幸の際ここ松原家(現在は早川家)で小休して、新井に向かった。
白山神社境内には、かつて宿場北側入口の街道脇にあった石柱が移設されている。「従是内、口附無之、小荷駄乗通るべからず。邑の内、咥きせる無用二本木宿」と刻まれているといい、宿場を通行する際の注意書きを記したもの。当時の宿場の通行量の多さと、「咥きせる(くわえキセル)」を禁じるという宿場の自治的な防火対策の模様が伺える。
文政7年(1824年)刊行と伝わる『吾妻紀行』という紀行書には、二本木宿の旅籠での食事の様子が描かれている。「二本木といえども 酒は一本木」と宿での食事を絶賛しているが、現在は旅館も食事処も無さそう。
中郷小学校脇の丘の上になにやら説明板があり、「蛇塚」と呼ばれる祠に関する伝承の説明のよう。かつてこの近くには大蛇が住んでおり、通行人の邪魔をしていた。ある寒い日に野伏が焚き火をしていると、急に地面が動き、大蛇のとぐろの真ん中にいることに気がついた。大蛇は焚き火でやけどをし、その結果死んでしまった。村人たちは祟りを恐れて、ヘビを石祠に祀って供養したという。
坂を下っていき、北国街道踏切を越えたところに二本木駅がある。新潟県唯一のスイッチバックが残る駅として知られる。
駅前は二本木宿の子村であった坂本新田の集落だったが、二本木駅の開業によって賑わい、駅前商店街は坂本銀座と呼ばれるようになった。家の敷地にある祠には馬頭観音と青面金剛の像が鎮座していた。
藤沢一里塚が見えてくる。西塚は戦後の食糧難の時代に潰されてしまったため、東塚のみが残っている。現道は後世に一段掘り下げられているので、塚は高い位置にある。
県道344号に沿って進むが、三叉路で左へ進み県道から離れて板橋新田の集落に入る。板橋新田は二本木宿と新井宿の中間にあたり、立場茶屋や馬屋が置かれていた。路傍にあった馬頭観音は、これまで見かけたものと同様、岩をくり抜いた中に観音像が鎮座しているタイプのものだった。
雑木林の中に神明神社がある。
神社の少し先に、岩にくり抜かれていないタイプの馬頭観音像もあった。
少し先の峠の辺りにも同様に祠に納められた馬頭観音像がある。隣の坐像は頭部を交換されているようだ。
少し坂を下ったところに小出雲坂(おいずもざか)と松並木の説明板がある。この辺りには「かしわもちや」の屋号を持つ立場茶屋があり、柏餅は越後名物の一つに数えられていた。加賀藩の参勤交代での休息所にもなっていたため「加州立場」とも呼ばれていたという。
小出雲坂は高田平野が見渡せる最後の場所(進行方向的には最初の場所)だったという。松並木は200mほど伸び、いい感じの日陰を作ってくれる。坂を下った辺りから再び妙高市に入る。
小出雲の集落に入ると賀茂神社がある。創建年代は不明だが、古来は斐太神社(妙高市神宮寺にある式内社)の末社だったと伝わる。斐太神社の主祭神の一柱に「大国主命」が数えられており、出雲大社の主祭神と一致している。小出雲の地名と何か関連があるかもしれない。
小出雲交差点の脇に明治5年(1872年)銘の道標があり、「左 飯山道 右 善光寺道」と刻まれている。加茂神社に折れて横たわっていたものを発見され、元あったであろう位置に戻されたもの。ここから姫川原、除戸、猿橋、長沢、富倉などを経由して飯山に至る飯山街道(富倉街道)が分岐していた。
渋江川を辻屋橋で渡ると、旧小出雲新田村に入り古い商家のような建物が点在している。新井宿手前ということもあり宿場的な機能を備えていたという。しばらく進むと上町延命地蔵尊がある。江戸時代の初めにため池から2体の地蔵を発見して祀ったところ、参詣者の子の夜泣きや夜尿症、母親の乳の出が良くなるなどのご利益があり、人々の信心を集めるようになった。後に明治時代にお堂が建立されたという。
新井宿は南から上町・中町・下町で構成されており、上杉謙信が天正3年(1575年)に通行している記録も残る。かつては「荒井」とも記されたが、天保9年(1838年)に「新井」表記に統一された。
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