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2017/07/17

【歩き旅】川越街道 Day2の③ 川越市へ!


亀久保の集落を進むと、正和3年(1314年)創建の地蔵院が見えてくる。
境内には市指定天然記念物であるしだれ桜が植えられており、その樹齢はおよそ350年前後だという。古老ゆえに痛みも激しく、延命措置が取られており、その姿はサイボーグのようでもあった。


その先には地蔵寺が別当を務めていたこともある「神明神社」がある。正確な創立年代は不詳としながらも、慶長3年(1598年)の創立で天照大神を祀っているとしている。境内には天保12年(1841年)の手水鉢や力石、御神木の切株などがある。

神社の脇には亀久保の馬頭観音堂がある。川越街道沿いにはこれまでの馬頭観音に関する伝説を幾つか紹介してきたが、その一つである大和田の「鬼鹿毛」伝説に登場する一頭の馬が倒れた地がここ亀久保だとされている。
観音堂の境内には他の場所から移設された庚申塔や馬頭観音も置かれている。

ここで少し街道を外れて上福岡駅方面へ。駅近くまで行くと「六道地蔵尊」が鎮座している。この地はいわゆる「六道の辻」で、まちや道、しんがし道(新河岸、現:川越市)、ふるいちば道、つるおか道(鶴岡、現:ふじみ野市鶴ケ岡)、えど道、ひきまた道(引又宿、現:志木市)の分岐点となっていたが、現在はふるいちば道が霞ヶ丘団地の開発に伴ってか消失したため、五差路となっている。


六道の辻の町屋道を進むと、鶴ヶ岡厄除地蔵が国道を見守っている。その奥に鶴ヶ岡八幡神社が佇んでいる。江戸時代に開拓された鶴ヶ岡村の村社にも列格していたが詳細な由縁は分かっていない。
鶴ヶ岡にある八幡宮ということで、鎌倉の鶴岡八幡宮と関わりがありそうだが、鶴ヶ岡の地名が先で八幡宮の勧請が後のようである。


鶴岡八幡宮から先は川越市となる。旧道を進んでいくと新井製菓前に「藤馬中宿跡」の碑が。川越宿と大井宿の中間に位置するこの地には上・中・下宿に分かれた集落が存在し、茶屋などがあったのだという。いわゆる「間の宿」としての役割を果たしていたのだろう。


藤間の集落を抜ける頃には日が暮れ始めていた。西日が差している東光寺の門は閉ざされている。東光寺は江戸時代に開拓された藤間村の発展に伴い、慶長15年(1610年)に開基。座像薬師如来を本尊にしている。


藤間の集落の外れには宝永6年(1706年)建立の開明地蔵尊が立派な屋根の下に納められている。川越藩は2つの御仕置き場(処刑場)を持っており、その一つはここ砂新田にあった。そのためこの地蔵は「首切り地蔵」と呼ばれている。
地蔵の右隣には明治45年(1912年)の三界万霊有無両縁塔が置かれている。「三界万霊」は過去・現在・未来の3つの世界のすべての生死を表し、「有無両縁」は内輪とそれ以外の縁すべてを表す。


先へ進むと砂新田春日神社が姿をあらわす。本殿が格子の向こう側にあるが、江戸彫りの見ごたえのある彫刻が施されている。本殿の屋根も雨よけとしての機能よりも装飾としての意味合いが強く、全体的に工芸的な社殿となっており、川越市の有形文化財にも指定されている。


御代橋で不老川を渡る。不老川は「としとらずがわ」とも呼ばれ、かつては「年不取川」とも表記された。1980年代には日本一汚い川にランキングされた時期もあったが、現在は見た目には普通の河川である。
その先で烏頭坂を上っていく。舟運輸送が盛んだった時期には、川越へ物資を運ぶために上らなければならない坂だったため、当時はかなりの難所として知られていた坂だったようだ。
坂の中腹にある階段を登れば熊野神社を拝むことができる。左右に並ぶ灯籠に沿って進んでいくと、大きな狸の焼き物に見守られた本殿がある。摂末社も多く祀られており、様々な信仰を集約した中心地だったことが伺える。


川越八幡宮は長元3年(1030年)の創祀と言われる歴史ある神社。当時この地は豪族・河越氏の所領で、鎌倉時代には河越氏の館が神社の裏手にあった。太田道灌の信仰も厚く、川越城築城の際には、分霊を川越城内に分祀している。
丁度七五三の時期ということもあり、家族連れや子供の姿が多くみられた。


まわりもすっかり暗くなってしまったので、急いで街道を進む。
出世稲荷神社は通称を「いちょう稲荷神社」という。その名の通り、鳥居の両脇には樹齢650年余と言われる大銀杏がそびえ立っている。その大きさのせいか、境内への入口が小さく見えるほどである。この時間の神社は雰囲気が色んな意味で素晴らしい。


さらに先へ進むと、道路の形状が不思議な形になっている箇所がある。写真ではわかりづらいが、撮影している足元に三角地帯があるのだ。
ここはかつて「鉤の手」と呼ばれる道が直角に曲がる場所であった。城下町では外部からの敵が攻め込みにくいように、道を直線にせずに何度か折り曲げた線形にすることがある。街道以外でも道を何度も曲げる「七曲り」や、多くの丁字路・袋小路など、城下町特有の道路形状が川越では多く見られる。


川越城大手門跡に到着。川越市役所前で鷹狩装備の太田道灌に出迎えて頂いた。ここが川越街道の終点となる。ここから東へ入れば旧川越城内である。

最近では小江戸川越と称されることも多い川越であるが、今回の街道歩きではじっくりと観光をすることができずに帰宅することとなった。駅までは札の辻から蔵造りの町並みを眺めながらの帰宅した。

多くの店が閉まったあとの車に照らされる町並みも、現代の観光地の一風景なのだなと、しみじみ感じた。

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