市川側の渡船場あたりから旧道が伸びているので、僅かばかりに寄り道する。旧道が国道14号(千葉街道)に出たところは「市川広小路」の交差点名。ここに胡録神社があった。
御祭神は面足命(おもだるのみこと)と惶根命(あやかしこねみこと)。人体の完全性を神格化した神であることから、健康長寿など様々なご利益を持つ。
また2柱は神代七代の六代目であることから、仏教における第六天魔王と同一視されており、元々第六天神社と呼ばれていたものが、明治の神仏分離時に「胡録神社」と称したと考えられる。
市川市内には胡録神社が5ヶ所もあるというから、第六天信仰の地域的な盛り上がりが感じられる。
国道14号に沿って進む。ここから船橋までは右手にJR総武線、左手に京成本線が街道に沿って走っているので、途中で歩くのをやめやすい区間でもある。
中央分離帯に「旧三本松」の看板が掲げられていた。
ここにはかつて3本の黒松が聳え立っており、市川の象徴的なランドマークであった。明治天皇の巡行の際にはその立派な姿に賛辞を賜ったという。
松は車の交通量が増えると枯れ始めてしまい、昭和10年(1935年)には伐採が行われ2本となった。最終的には、昭和33年(1958年)の道路拡張工事に伴って完全に伐採されてしまった。
今でも三本松があった辺りには「三本松」の名称を店名などに取り入れている施設があり、市川市民の心の拠り所となっている。
歩道上に「青面金剛」と刻まれた碑がある。結構邪魔な位置にあるので、もしかしたら昔はここまで宅地があってセットバックしたのかもしれない。石碑をよく見ると下部に三猿らしき膨らみ、上部に太陽と月をあしらった彫り物があり、庚申塔として建てられたことがわかる。
「東 八わた十六丁 中川一里」「西 市川八丁 江戸両国三り十丁」と刻まれているという。この場所は市川村と市川新田村の境にあたる地点である。
しばらく進むと再び胡録神社がある。この新田胡録神社は新田春日神社と同じく菅野白旗天神社が管理しており、祭りも同一日に行われるという。創建年代は不明だが、承応2年(1653年)に再建された記録が残っている。
曲がり角に石碑が2基建っている。一基にははっきりした文字で「左 宮久保山道」とある。「宮久保山」は市川市宮久保にある高円寺の山号。樹齢200年とも言われる長寿藤の名所である。
もう一方は寛政11年(1799年)の道標で「右 や王多道 左 春可野道」と刻まれているという。「や王多」は「やわた(八幡)」、「春可野」は「すがの(菅野)」を指す。この場所は市川新田村と平田村の境でもある。
境内に入ると砂地に松が植えられており、この辺りが市川砂州と呼ばれる砂地でできた地形であることがわかる。拝殿の脇には一番御柱、二番御柱が奉納されており、本家信濃の諏訪神社さながらの雰囲気を漂わせている。
本八幡駅前の交差点に到着。左手に京成電鉄八幡駅、右手に総武線本八幡駅、足元が都営新宿線本八幡駅である。
近くにある葛飾八幡宮の門前町として成立した集落が、江戸時代に初期に八幡宿として宿駅指定された。新宿から八幡宿までは道中奉行の管轄で、これより先は佐倉藩が管理していた。隣の船橋宿までの距離が1里15丁(約5.5km)と短いこともあり、本陣・脇本陣は設置されず、宿泊にもあまり使われなかったという。
アクセスが良いこともあり本日はここまでとする。
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