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2020/04/07
【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day1 その①
今回の旅の起点となる新宿(にいしゅく)は、北条氏によって拓かれた集落である。大永5年(1525年)、古利根川を挟んで対岸にあった葛西城を攻略した北条氏綱は、葛西城を下総方面の進出の基点に位置づけていた。その進出の先駆け事業として行ったのが葛西新宿の整備である。史料が残る永禄11年(1568年)頃には整備されていたと考えられており、河川と街道の交通が交わる要衝となっていた。
追分を出てすぐ、石碑がまとめられている場所がある。ここにあるのが葛飾区で現存最古の道標「角柱三猿浮彫道標」である。元禄6年(1693年)建立の道標には「これより右ハ 下川原村 さくら海道」「これより左 下の割への道」と刻まれているという。
新金貨物線の高砂踏切を渡り、左手に大きめの寺が見えてくる。崇福寺は慶長3年(1600年)に日本橋浜町に建立された「崇福庵」にはじまり、徳川幕府の大老四家の一つ・酒井家の江戸での菩提寺として栄えた寺院である。明暦3年(1657年)の明暦の大火で消失した際に浅草に移転し、大正12年(1923年)の関東大震災で被災した際に現在地に移転してきた。
京成金町線の線路を越えると左手に桜道小学校がある。おそらく佐倉街道にちなんだものかと思うが、この先あたりから「旧佐倉街道」と書かれた現代の道標がところどころに設置されている。街道沿いには桜並木も広がり、街道沿いであることを意識した景観が作られており、「さくらみち」という通称名がつけられている。
江戸川区に突入すると道の名前が「親水さくらかいどう」に変わる。
親水とあるように、歩道沿いには小川が整備されて桜の花びらが流れて花筏ができていた。
親水さくらかいどうが江戸川土手にあたるあたりに大きな水神碑がある。江戸時代に水不足で悩んでいた小岩田村の石川善兵衛が中心となって、江戸川から農業用水を引いたことを讃えるものである。親水さくらかいどう沿いを流れる小川も、この功績を忘れないようにという思いから整備されたものだという。
水神碑そばの祠には石像・石碑がいくつか並んでいる。その一番右にあるのが、慈恩寺道の道標を兼ねた地蔵菩薩碑である。正徳3年(1713年)建立の石碑で、「これより右岩付慈恩寺道、岩付まで七里」「これより左千住道、千住より弐里半」と刻まれているという。
岩槻慈恩寺は埼玉県さいたま市(旧岩槻市)にある天台宗の寺院。江戸時代に江戸町民などの間で流行した坂東三十三箇所巡礼の第12番札所である。
街道は江戸川に差し掛かる。東京都と千葉県の境界を担う川であるが、江戸期には房総に対する要衝であったため架橋されず、市川の渡しで渡船していた。明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまでは渡船が運航していたという。
江戸川沿いに南下すると、公園が付帯した小岩田天祖神社がある。天正年間に創建したと伝わる神社で、現在の本殿は文政10年(1827年)に再建されたもの。
門前に青面金剛と馬頭観音像が置かれている寺院は真光院。「上小岩遺跡通り」という通称がある門前の東西に伸びる通りは、古代東海道の跡とされている。
かつては茅葺の本堂であったが、昭和47年(1972年)にコンクリート造りに建て替えられ、現在に至っている。
京成本線の江戸川駅を越えたところに再び慈恩寺道の道標がある。この辺りはかつて御番所町と呼ばれ、関所(=御番所)前の町であった。
またこの場所は両国方面から伸びる元佐倉道(旧千葉街道)との合流地点ともなっている。
小岩市川の渡しは室町時代には設けられていたとされる。現在は廃止されているので、近くに架かる市川橋で江戸川を渡る。
市川橋を渡ると千葉県に突入する。江戸時代は下総国であった。
堤防の上に冠木門が物々しく立っており、この辺りに関所があったことを知らせてくれる。
関所ができたのは万治年間(1658〜1661年)で、江戸川および利根川最下流の関所として重要視され、人の往来だけでなく船の運行の監視も行なっていた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では市川・船橋戦争と呼ばれる戦いがあり、軍事上の要衝であった関所近くでも戦闘があった。関所は明治37年(1904年)に廃止されるまで存続していた。
いまでは私のような人間でも関所を通過できるのだから、ありがたいことである。
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