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2022/08/07

【歩き旅】北国街道 Day3 その①

 北国街道3日目はしなの鉄道坂城駅よりスタート。


駅前を南北に通る坂城宿の立町と大門町。宿場の収益を安定させるため、万治3年(1660年)には大門町・新町の旅籠に飯売奉公人、すなわち飯盛女が設置された。北国街道の宿場の中でも早い時期から飯盛旅籠を設置していて、宝永年間(1704〜1710年)に坂木村が幕府領になると、その範囲は立町・横町まで拡大している。


村上義清の幟がはためくのは、旧坂城宿本陣である旧宮原家。寛政11年(1799年)に火災に遭ったが、天保4年(1833年)に再建された。現在残る表門は江戸中期の建築、主屋は昭和初期の建築となっており、見学することも可能である。


旧宮原家の近くには代々名主を務めた坂田家の住宅がある。明治45年(1911年)の火災後に再建された木造2階建ての建物で、外壁は2階部分は土壁、1階玄関周りは海鼠壁で仕上げられている。旧家が多く残る坂城の町並みの中でも往時の雰囲気を残した目を惹く建物である。


日名沢川を渡り大門町、その先左手に折れると新町となる。防衛上の目的で街道はさらに左に折れ、すぐに右に折れる。ここに嘉永6年(1853年)建立の善光寺常夜灯が置かれており、坂城宿の北口であったことを物語る。


しばらくすると右手に「産業道路1号線」のゲートが現れる。産業道路を謳う割には狭い道だが、北国街道の東側を鼠宿のあたりまで迂回する道のようだ。ここに2基の道祖神がある。


道を挟んで反対側には聖徳太子碑がある。なぜここにいくつも石碑が置かれているかの理由と考えられるものが隣の説明板に書かれていた。ここから先の旧北国街道は「横吹八丁」と呼ばれる山腹の断崖を進む道で、北国街道随一の難所として知られていた。その坂城側の口がこの辺りにあったが、明治10年(1877年)に千曲川沿いに現在の国道18号が開通し、横吹八丁は廃道と化した。


横吹八丁があったと見られる場所を見上げてみる。現在ではがけ崩れなどの影響で一部の遺構が残っているのみとなっていて、全通は困難とのこと。


横吹八丁を進むことは諦め、国道へと迂回して西へ向かう。千曲川対岸の岩井堂山(自在山)のきれいな三角錐を臨む。


国道の左手に苅屋原ミニパークという駐車場兼休憩所がある。ここに横吹の説明板があった。


その隣には「笄(こうがい)の渡し」の説明板があった。伝承によれば、天文22年(1553年)の葛尾城陥落の際、村上義清の奥方一行は千曲川対岸の荒砥城へ逃げるため、船と船頭を探していた。ある船頭がこの任を引き受け、無事対岸に着くことができた。このお礼に髪に挿していた装飾品である笄を与えたことから、笄の渡しと呼ばれるようになったという。


ミニパーク内には道祖神や馬頭観音碑が並ぶ。元々横吹八丁にあった芭蕉句碑などもこちらに移設されている。


こちらは「姨捨山冠着宮遙拝所碑」。古今和歌集で月の名所として歌われた姥捨山が冠着山であることを周知すべく、更級郡更級村初代村長の塚田小右衛門雅丈によって、3つの遥拝所が設置された。麻績村、稲荷山町(千曲市)と並んで坂城村に設置されたのがこの地で、姥捨山に関する句や歌が碑文に刻まれているというが、摩耗が激しい。


横吹を抜けた先で、千曲市に突入する。


ここに「苅屋原の七不思議(伝説) 舟つなぎ石」という碑がある。笄の渡しがあった時代に、渡船を繋ぎ止めておく石が川岸にあったという。大水のときもこの石に船を繋いでおけば流される心配はなかったという。現在では存在しないと書かれているが「この先約10M」というのはどういうことだろうか。


すぐ脇に国道舗装記念碑があり、ここからしなの鉄道の線路を横切って旧道へ入っていく。

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