ここから上戸倉宿の町並みが延びる。元々は戸倉宿として成立していたが、元和8年(1622年)に上戸倉、下戸倉に分村した。
街道は突き当りの枡形で左折し、道なりに進むと水路を越える。ここには安永2年(1773年)の道祖神、慶応3年(1867年)の二十三夜塔が並ぶ。このあたりまでが上戸倉宿だったようだ。
磯辺踏切を渡って再び国道へ。その先の磯部信号機の傍らに句碑のようなものが。調べてみたが内容は不明だった。
磯部信号の先の道が広くなっていて旧道の痕跡であることが伺い知れる。道が二股に分かれるところに大正時代の聖徳太子碑がある。この辺りの旧道はイマイチ不明瞭だが、すぐに国道に復帰する。
戸倉交差点の辺りから下戸倉宿が始まっていたようだ。戸倉駅入口交差点手前の茅葺き屋根は、坂井銘醸(酒井家)のもの。創業は慶長元年(1596年)で、柳沢本陣が「上の酒屋」と呼ばれていたのに対し、「下の酒屋」の通称で知られていた。
明和元年(1764年)建立の道標には「左 お者すて やハ多 道」とある。ここを左に向かう道は式内社でもある八幡神社(武水別神社)や姨捨山へと続く道であるという。
今井交差点に天狗の絵が印象的な「戸倉宿キティパーク」の案内板があった。平成6年(1994年)に開設された公園で、園内の千曲天狗の像は全長9.5mで日本一のサイズだという。千曲川の洪水の際に、山伏が戸倉自在山に移り住み、村人の幸福を祈願したことに感銘を受けた村人が、後に山伏を天狗として祀ったという天狗伝説が残る。
今井交差点の先で右手に旧道に入り、しなの鉄道の線路沿いを進む。用水路脇の区画に百万遍供養塔が置かれていた。
火の見櫓の袂に明治14年(1881年)建立の「信濃宮御古墳迄二町」の道標が置かれている。ここを東に進めば、柏王神社がある。この神社は後醍醐天皇の皇子・宗良(むねよし・むねなが)親王(信濃宮)を祀っており、境内には宗良親王がこの地で病に罹った際に平癒祈願として髻(もとどり)を埋めた「髻塚」や供養塔がある。
少し先には南無阿弥陀佛名号碑、二十三夜塔、石祠、道祖神が並ぶ。この辺りから集落名が「一里塚」となるが、特に一里塚があるような場所も痕跡も現存しないようである。
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