道路新設碑があった。この隣の県道595号の整備の際に建てられたものだろうか。旧道はこのすぐ先で天神川に阻まれるので県道の橋を渡って旧道に戻るが、またすぐに県道に合流する。
漢字が読みにくいからか、ひらがなの「いしびつ」交差点を通過。県道に沿って流れる川に架かる橋は「向原橋」であることが、半分埋まった標柱からわかる。
丸町の集落を越えたあたりから先の旧道は、水田開発によってほとんど失われてしまっているようだ。とりあえず丸町を抜けたところで県道593号に乗り換えて南東方面へ進む。曽根田川の手前で南西方向へ転換する。
田んぼの脇にあった石祠には右手に青面金剛らしき像、左手に石碑か何かが鎮座していた。生モノが備えられていたり花が取り替えられているところを見ると、信心深い方によって参拝されているようである。
田んぼの合間の道を進む。県道53号にあたったところで左に曲がり、東小田橋で曽根田川を越え、右折する。
ここに水神社がある。国土地理院の地図によれば水神社前に橋がかかっており、そのあたりから旧道が復活していたのだが、2022年現在にはかかってない。
旧石橋集落を抜け、旧馬市集落に入る。現在では朝倉郡筑前町東小田から筑紫野市西小田に入る異なる。「小田」という地名が市町をまたいで分かれている形となる。
石造りの蔵の前に「駄祭記念碑」と刻まれた碑が置かれていた。「駄祭」とは農耕に利用した牛馬に感謝する祭りのことで、「ダブリュー(駄風流・駄糞流)」とも呼ばれる。周辺の各集落でも伝統的に行われていたようだが、戦後あたりから実施する集落は激減し、現在ではどの程度残っているのか計り知れない。また、この記念碑は執筆現在は近くの馬市天満宮の敷地へ移設されている。
牟田川を馬市橋で渡り、しばらくすると2本の石碑がそびえ立っている。「従是北筑前国」、「従是南筑後国」とあるように、これは筑前国と筑後国の境界を示す境界石である。かつては木の杭であったが、 18世紀中頃には小型の石柱に変わり、19世紀中頃までに現在の花崗岩製の石柱に建て替えられたという。現在では筑紫野市西小田と小郡市乙隈の市堺となっている。
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