乙隈公民館の敷地に「御大典記念」と刻まれた円柱状の道標があった。大正天皇即位の御大礼を記念して大正4年(1915年)に建立されたもの。近隣の村々までの距離が刻まれており「松崎 一里五町五十六間、小郡 二里七町、甘木三里八町」などとある。
県道53号を南下し、草場川を御原川橋で渡る。
そのすぐ先で道路工事が行われていた。後ほど知ったが、平成28年(2016年)の道路工事で丁度この街道沿いで全長約90mの石垣と石敷が発見されている。これは野越堤と呼ばれ、草場川の氾濫から街道を守るために江戸時代頃に築かれたものと考えられている。
大正4年(1915年)に地元青年団によって建てられたと見られる道標がある。左には「干潟 石櫃 山家 二日市…」右には「本郷 田主丸 松崎 久留米…」と刻まれているように見える。先程の御大典記念と合わせて建立されたものだろうか。
「一里木」という名前のバス停があり、その先に「一里塚跡」の説明板があった。ここ干潟(ひかた)の一里塚は、寛延3年(1750年)に有馬藩によって一里塚が築かれた記録が残っている。しかし、その後ほとんど手つかずの状態となり、天明年間(1780年頃)には早くも大半が原型をとどめないほど荒廃してしまったという。
街道は小郡市立立石小学校と立石中学校の間を抜けていく。ここに「立石村尋常小学校建築記念碑」がある。すぐ近くには戦時中の立石国民学校時代の「奉安殿(天皇・皇后の御真影や教育勅語の謄本を納めていた建物)」が移設されている。戦後のGHQの命令により全国の奉安殿は処分することとなっていたが、別の用途として転用する場合は処分を免れることができ、立石国民学校の奉安殿は道を挟んで向かいにあった立石村役場の金庫に転用されることとなった。
近くには平成27年(2015年)に設置された薩摩街道の案内板があり、この道が街道であることを再確認できる。
バス停「三軒屋」を横目に街道っぽいなと思いつつ、九州横断自動車道をアンダーパスする。左手に見える祠には地蔵が鎮座していた。麦わら帽子がファションの決め手。
地蔵祠の道を挟んで反対側が霊鷲寺(りょうじゅうじ)の境内となっている。霊鷲寺は後二条天皇の勅願寺として西牟田(筑後市)で創建したが、延宝8年(1680年)に有馬豊祐が松崎藩主となった際、菩提寺としてこの地に移転したものである。勅願寺で格式が高いことから、参勤交代で通行する際、大名も駕籠や馬から降りて礼拝したという。
境内の改修真っ只中のようで、所々に資材が散らばっている。楼門までの約100mの参道は杉並木となっている。
参道を抜けると瑞松山の扁額が掲げられた楼門が建っている。楼門は平成26年(2014年)に改修を行っており、その際に旧楼門の資材を部分的にそのまま利用している。
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