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2024/10/07

【歩き旅】北国街道 Day6 その②


関川の関所を出たところにあるのが関川宿。関川宿の加賀藩本陣跡が公開されている。とは言っても当時の建物は火災で消失しており、庭園が残されているのみ。大石家は加賀藩の他9藩の本陣を務めていたり、寺子屋としても利用されていた。


道に面した大石家の敷地の一角に「明治天皇関川行在所阯」の碑がある。明治12年(1879年)の明治天皇北陸巡業の際の行在所としてここで宿泊した。


少し進めばすぐに関川宿と上原(うわはら)宿の堺の案内板が現れる。宿役の増加などに伴い、明暦元年(1655年)に関川宿は上原宿との合宿となり、半月交代で問屋業務を務めた。関所業務の手伝いも行っていたという。


上原宿には越後高田藩専用の本陣である豊田家があった。昭和年間に取り壊され、石塀やイチョウの木がかろうじて往時を偲ぶものとして残っている。


かつて2つの宿場が並んでいたこの場所も、現在では民家も疎らで車どころか人通りも少ない静かな町並みだった。


宿場を抜けた先、左手に上原村の鎮守である天神社がある。


天神社の境内に「親鸞聖人袈裟掛の松」がある。越後国府に流されていた親鸞聖人は、度々戸隠にある修行場に参籠したが、途中で上原宿入口にあった松に袈裟を掛けて休息したという。道路拡幅工事に伴い移設され、現在の松は3代目だという。


境内に一際高くそびえる杉の木は樹齢1000年以上とも言われ、国指定天然記念物に指定されている。往時は信濃・越後国境の目印になっていたという。


道が緩やかに下っていくにつれて、家屋が増えてくる。このあたりは妙高温泉と呼ばれる温泉街になっている。大正元年(1912年)に赤倉温泉分湯として開湯し、大正10年(1921年)には赤倉山南地獄谷から8kmの引湯を行い、妙高温泉と改称し、温泉街が発展した。


緩やかに坂を登っていくと妙高高原中学校があり、そこから緩やかに下っていくのが集落の名前にもなっている毛祝坂(けわいざか)。左手に正保5年(1648年)創建の神明神社がある。加賀藩前田家は参勤交代の折に参拝していたという。


神明神社の少し先道の反対側に「清き泉の由来」と題した案内板があった。奥に水たまりのようなものがあったのでそれが泉なのだろう。毛祝坂集落は関が原の戦いで敗れた石田三成の一族によって形成されたと伝わる。加賀藩の前田利家は石田三成と盟友であったことから、加賀藩前田家は敬意を表してこの泉で身を清めてから先程の神明神社に参拝していた。


川に向かった緩やかな下り坂の路傍に馬頭観音らしき石仏があった。

池ノ平を源流とする深沢川を深沢橋で越える。妙高高原小学校の前に「北国街道一里塚」の標柱があった。田切一里塚はこの場所ではなく、深沢川の北側にあったという。


国道18号を横切り旧道へ。第二白田切橋で白田切川を渡る。火山由来の水銀が存在する妙高山を源流としているため、雪解けや大雨によって川が白く濁ることがあるといい、河川名の由来にもなっている。また、この場所はかつては小田切坂によって阻まれた難所として知られた。

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