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2024/11/01

【歩き旅】北国街道 Day7 その②


地蔵尊の少し先に、出雲大社越後石沢講社があった。明治17年(1884年)に出雲大社より認可を得て、郷土の反映と産業振興を祈願して建立された。平成27年(2015年)に講社建立130年を記念して社殿を改築した。


街道沿いには「出雲大社本殿跡地」の碑が置かれている。石沢には江戸時代に杵築大社(現在の出雲大社)の分社があり、御師の宿場もあったというが、これがその跡地なのだろうか。あるいは昭和31年(1956年)の社殿改築や昭和57年(1982年)の拝殿移築の跡地だろうか。


道を挟んで向かいには馬頭観音碑がある。


北陸新幹線の高架下をくぐると、明治天皇石澤御小休所阯の碑がある。隣には「御小休根切松」と刻まれた碑もある。かつては樹齢500年の松が街道に張り出していたが、御巡幸の際に根から切られたという。天皇はここに小屋を立てて休憩した。


県道579号に合流したところに矢代川改修記念碑がある。脇には案内板があり、この矢代川を貞享年間(1684〜1687年)までは徒歩で渡り、その後舟渡しとなっていたが、正徳元年(1711年)になって板橋が完成したことが記されている。この碑は大正3年から2年がかりで行った築堤工事の完成を記念したものだという。


矢代川を瀬渡橋を渡る。昭和8年(1933年)に上越地方初の永久橋として架橋され、改修を重ねているものの今でも現役の古参橋である。


橋を渡った袂には延命地蔵尊の祠がある。

茶屋町交差点を右折し、大和集落へと入る。県道254号を横断すると、大和神社の参道がある。室町戦国期に村上氏の居館である今泉城があった地で、その跡地に明治40年(1907年)、旧大和村の各字の氏神を合祀して大和神社を創建した。


願清寺がある。正安3年(1301年)に覚如の弟子によって創建されたと伝わるようで、寺格もそれなりなのか「越後赤門」の名の通り、赤門が映える。


そのすぐ先に弘法の清水の碑と説明板があった。弘法大師が錫杖で土を掘ったところ清水が湧き出てきたという伝説にちなむもので、長年地域の生活水として利用されていたという。現在は井戸は閉じられてしまっている。弘法の井戸掘りスキルには改めて脱帽する。


突き当りを左に曲がると、荒町交差点で県道579号に合流するので右折する。荒町バス停の近くにある水谷家が江戸時代に大肝煎(関西でいう庄屋、関東でいう名主)だった。左手にある祠には大小2体の地蔵尊が祀られている。


天保6年(1835年)建立の馬頭観世音碑があった。加賀藩の大名行列の際、赤池川(現在の赤池用水)を馬で渡る際に事故があったため設置されたという伝承がある。


高田新田交差点の一角に巨大な題目塔がある。かつてこの辺りに伊勢町一里塚があり、題目塔も建てられていた。この石塔は弘化年間(1844〜1847年)に建立されたもので、最近まで近隣の日蓮宗寺院で保管されていたという。また、この場所は高田城下の南の出入口にあたるため口留番所が置かれ、荷物改めや徴税が行われていた。


同じ一角に伊勢町口番所跡の碑。


一里塚の碑もあった。


高田新田の交差点を越えた辺りから、雁木が張り出した道が伸びる。雪深いときにも通行を確保するための工夫で、高田の雁木は総延長16kmで日本一だという。

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