青田川放水路を越える。青田川は市街地を流れており、氾濫対策のための河道拡張が困難な状況であった。そこで市街地に差し掛かる手前で青田川を分水したのが青田川放水路。
右手に関町神明宮が現れる。高田城の南西に位置し、裏鬼門を鎮護している。かつては春日山にあったが、慶長5年(1600年)に福島(現:直江津)、慶長17年(1612年)に出雲町(現:南本町1丁目)、寛永3年(1626年)に現在地に移転した。
南本町二丁目交差点で左に折れる。何度も90度に道が折れるのは城下町特有の防御力を高める工夫である。最賢寺の前に「400年の歴史と文化の町」の説明板があった。慶長19年(1614年)築城の高田城下にある文化財などが一覧化されている。
最賢寺にある文化財の一つが「大イチョウ」。高さ約23mで推定樹齢は300年以上だという。また最賢寺は、真宗大谷派の僧侶で大谷大学の名誉教授でもあった「金子大榮」の生家でもある。
左手に「粟飴翁飴本舗」の看板が掲げられた高橋孫左衛門商店がある。寛永元年(1624年)創業で、日本一古い飴屋と言われる。看板にもある「翁飴」は水と寒天で作られ、日持ちが良いため高田藩が参勤交代での土産に利用していたという。また十返舎一九の著書『方言修行 金草鞋(むだしゅぎょう かねのわらじ)』では、「粟で作った飴が上品で風味がよい」として店の繁盛ぶりとともに紹介されている。夏目漱石の『坊っちゃん』にもこの店の「越後の笹飴」がとりあげられている。
街道は本町一丁目交差点で右に折れる。右手に胎蔵院不動尊が現れる。
その先の交差点に「史跡 札の辻」の標柱が立つ。高札が設置された場所であり、豪雪により「この下に高田あり」の高札が掲げられたこともあった。また各地への里程の起点とした場所でもあり、善光寺まで16里、江戸板橋まで71里としていた。
左手に旧第四銀行高田支店がある。昭和6年(1931年)に百三十九銀行本店として、当時としては珍しい鉄筋コンクリートで建てられた。昭和18年(1943年)に第四銀行に合併され、平成21年(2009年)まで利用された。訪問後は平成31年(2019年)に上越市文化財に指定され、令和6年(2024年)現在では高田まちかど交流館としてイベントなどのホールとして利用されている。
右手にある雁木通りプラザの広場に書状集箱という木箱があった。日本の近代郵便制度の創設に尽力した前島密が越後国頸城郡下池部村(現在の上越市下池部)出身であることにちなんで、日本で最初の郵便ポストと同型のものを設置している。
その裏手に、町会所跡の標柱があった。町会所は藩によって選ばれた町年寄が町政を執る役所で、それまでは町年寄の自宅を持ち回りで利用していたが、延享元年(1744年)に建物が設けられた。昭和46年(1971年)に高田市と直江津市が合併して上越市が成立し、新庁舎が作られるまで高田市役所があった地でもある。
高田城下の町人町は、福島城廃城時に福島城下にあった機能を移転したものが多い。元禄〜寛政年間あたりの高田宿は、役馬が四〇疋(関町一八疋・府古町一五疋・出雲町七疋)、無役馬一八疋(府古町一四疋・関町三疋・出雲町一疋)という規模だった。
小町問屋街跡の碑が立つ。現在の本町4〜6丁目は、かつて上小町、中小町、下小町と呼ばれるエリアで高田の中心地であった。藩から独占販売権を与えられた塩・煙草の問屋があり、信州との取引は必ず小町問屋を通す決まりであった。これにより町や藩の財政を大いに助けた。
本町七丁目交差点。ここまでを北国街道としているガイドブックもあるが、ここから東に進み出雲崎へ向かう道は奥州道。西に向かうと加賀に向かう北陸道・加賀街道となる。どちらも広義には北国街道と呼ばれるが、本日の街道歩きはここまでとし、後日奥州道にあたる北国街道の続きを歩くこととする。
交差点には「小川未明文学の小径」と題された案内板があった。明治15年(1882年)に高田で生まれた未明は、生涯で1200点以上の童話を創作し、「日本のアンデルセン」や「日本近代童話の父」と称される人物。現在でも公募による児童文学賞である「小川未明文学賞」に名を残している。この説明板から北進し、次の信号の近くに小川未明誕生の地があるという。
本町七丁目交差点から少しだけ北に進んだところに宇賀魂神社がある。ここにある道標には「右 お丶しう道 左 か丶みち」とある。この道標は福島城の石垣の石を利用して造られたもので、かつては本町七丁目交差点にあったが、昭和10年(1935年)頃に現在地に移されたという。
折角なので街道を離れて高田城まわりを散策することにした。
0 件のコメント:
コメントを投稿