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2024/11/03

【歩き旅】北国街道 Day7 その④


本町まで戻ってきた。ここから司令部通りを東に進み、高田城へと向かっていく。司令部通りは明治41年(1908年)に陸軍第13師団司令部が高田城に入城した際に、城から街道までの道筋を直進できるように整備したことにちなんでいる。


市の橋で青田川を渡る。青田川は高田城の外堀の役目を果たしていた。かつての市の橋はここから少し南側に設けられた馬出しから架橋されていた。


大手町公園に「絵図で探る高田の城下町」という説明板があった。この絵図は正保城絵図と呼ばれ、築城から約30年後の高田城と城下町の様子が描かれている。


高田公園の一角に高田城の大手橋跡の碑が立つ。城内と城下を結ぶ大手橋は長さ三十二間一尺五寸、幅三間、高さ四間の木橋で、現在の場所よりも10m程北側に架けられていたが、明治23年(1890年)に取り壊された。


高田城の外堀は堀幅が非常に広いのが特徴で、これは関川の複雑な蛇行部分を活かして築城したため。外堀は、西堀・大手堀・南堀・北堀・捨堀で構成されるが、堀幅は広い所で西堀54間(約97m)、大手堀59.5間(約107m)、南堀84間(約151m)、北堀78間(140m)、捨堀26間(約47m)と記録されており、全国的に見てもかなり幅が広い。


現在は高田城址公園として整備されている外堀部分約19haにはハスが植えられている。戊辰戦争で財政難に陥った高田藩をれんこん栽培で立て直すため、明治4年(1871年)に大地主・保阪貞吉が私財を投じてハスを植えたことに始まる。訪問時は時期ではなかったが、高田城址公園観蓮会が7月下旬から8月中旬に開催され、ピンクと白の花が入り交じる世界でも珍しい蓮花群が見頃となる。


公園内には陸軍第十三師団司令部の遺構が至る所に点在している。陸軍第十三師団は日露戦争時に新設された4師団の一つで、明治38年(1905年)に編成。日露戦争後は朝鮮半島の警備、シベリア出兵に参加するなどしたが、軍縮により師団が廃止となった。終戦後には米軍が進駐し、撤退後は新潟大学高田分校として利用され、現在は上越教育大学附属中学校の敷地となっている。


高田城の三重櫓は平成5年(1993年)に復元されたもの。高田城は徳川家康の六男である松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。この時、工事の総監督を務めたのは伊達政宗であった(忠輝の正室は政宗の長女・五郎八(いろは)姫である)。工事期間が短いことや、資材が集まらなかったこともあり、石垣を設けず土塁による造成をしたり、天守閣を設けない作りになっていたりする。


三重櫓の1、2階は展示室、3階は展望台になっている。妙高山だろうか、雪がかった山脈が映える。


高田城の本丸跡には何も残っていない。現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に本丸御殿を初めとした多くの建物が存在していた。表御殿は江戸城、大坂城に次いで全国3番目の規模だったという。そんな本丸御殿について、建物を復活させて観光資源としようという動きが市民団体の間で生まれているようで、市長へ直接要望内容を解説するなどしているという。


上越教育大学附属小学校の敷地にアルパカらしき動物が飼育されていた。調べてみると、命の大切さなどを学んでもらう目的で、毎年長岡市・山古志の牧場からアルパカが提供されているのだという。ヤギやブタを飼育する例は聞いたことがあったが、アルパカを飼育するというのもあるのだと知った。


えちごトキめき鉄道の高田駅から帰宅する。赤レンガの意匠は東京駅丸の内口をイメージしたもので、駅前の歩道部は高田らしく雁木型のアーケードで覆われている。


妙高高原駅で乗り換え。平成27年(2015年)の北陸新幹線開業までは「脇野田駅」という名称だった。東口のロータリーには出来たばかりの上杉謙信像。謙信ゆかりの地といえば、日本海近くの春日山のイメージだが、所在地が上越市なのでまあ良いか。

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