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2020/04/07

【歩き旅・ルート】水戸佐倉道・成田街道 〜新勝寺を目指す道〜

水戸佐倉道の役割

戦国時代の佐倉は、本佐倉城に千葉氏の本拠地があり、この城は秀吉の小田原征伐では後北条氏の支城となった。天正18年(1590年)、北条方の敗戦によりに千葉氏が改易となり、城は徳川氏に接収された。
家康関東入府後の慶長15年(1610年)、本佐倉城に佐倉藩の藩庁が置かれて以後、佐倉は東国の防衛拠点としての役割を担うこととなる。その軍事拠点と江戸とを結ぶために整備されたのが、佐倉街道(水戸佐倉道)である。

江戸町民の娯楽だった成田詣

江戸時代が始まり暫くすると、それまでの武士主体の世は、町人が活躍する時代に移り変わっていった。
経済的に余裕ができた江戸の町人は、有名な観光地に旅行することを娯楽とするようになった。特に人気だったのは伊勢神宮への「お蔭参り」。東海道を西へ進み、日永追分で伊勢参宮街道を使い向かう。しかし伊勢までは15日程かかり、道中の宿泊費や食費、船賃など出費はかなり多く、資金や日程の準備のハードルが高かった。遠出したいけど行きづらい、そんな町人に打ってつけだったのが、江戸近郊の寺社仏閣への参拝であった。その一つが成田山新勝寺への「成田詣」であった。

新勝寺の開山は天慶3年(940年)、平将門の乱平定の平和祈願を目的として作られたと伝わる。
元禄元年(1688年)、当時人気を博していた歌舞伎役者の初代市川團十郎が新勝寺で子宝を願掛けし、二代目團十郎を授かったことから成田詣の人気が加速し、元禄16年(1703年)には深川永代寺で出開帳を行うまでに至った。この頃から「佐倉街道」ではなく「成田街道」と呼ばれることが多くなったという。
この人気が現在まで続き、移動手段が鉄道に変わった現在でも、初詣で人気のスポットとして「不動」の地位を築いている。

印旛沼・手賀沼の北側を回る水戸街道に対して、成田街道は南側を回るルートを取っている。成田山への登り区間以外は高低差もほとんどないため、非常に歩きやすい道のりであった。

(水戸街道新宿)ー市川宿ー八幡宿ー船橋宿ー大和田宿ー臼井宿ー酒々井宿ー成田宿ー寺台宿ー成田山新勝寺


1日目 2017/04/16 新宿追分〜八幡 その① その②
2日目 2017/04/22 八幡〜船橋 その①
3日目 2017/07/08 船橋〜ユーカリが丘 その① その② その③
4日目 2017/12/09 ユーカリが丘〜本佐倉 その① その② その③
5日目 2017/12/10 本佐倉〜成田山新勝寺 その① その② その③ その④

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