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2020/05/12

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day3 その①



千葉県西部を代表するターミナル駅・船橋駅前より3日目開始。まずは船橋宿の現在の様子を見る。

船橋宿は西から海神村・九日市村・五日市村からなる宿場で、九日市村に問屋場が置かれていた。成田詣の流行以降に宿場として認められ、特に飯盛女は「八兵衛」の隠語で江戸でも有名になった。成田詣と偽って、実際は船橋の飯盛女が目当ての旅人も多く、成田街道最大の宿場にまで発展した。

千葉銀行船橋支店前に明治天皇船橋行在所の碑が置かれている。明治天皇が初めて千葉県を訪問した明治6年(1873年)、船橋町九日市の現在地にあった旅館・桜屋で昼食を取って以降、千葉方面訪問の度によく利用する場所となった。


船橋駅近くの水戸佐倉道・成田街道は「本町通り」の通称がある。その通り沿いにいくつか古そうな建築物があるが、その一つが江戸時代初期創業の駄菓子屋・ひろせ直船堂である。

大正7年(1918年)の木造二階建て切妻造瓦葺で出桁造の建物は、戦争によって資金がなくなってしまい、建物の建て替えができなかったことが功を奏し、船橋市の景観重要建造物に指定されるに至っている。


ひろせ直船堂の向かいにある森田呉服店も古い建物である。江戸時代末期に創業し、建物は明治5年(1872年)の二階建て商家建築である。今でも手ぬぐいなどを販売している。


森田呉服店の隣には、厳島神社がこじんまりと鎮座している。詳しい創建については不明だが、宮島から勧請され、古くから弁天様として親しまれていたという。船橋は古くから漁業で栄えていたこともあり、宗方三女神を祀って航海の無事を祈ったのだろうか。


船の先端がオブジェとして飾られている海老川橋を渡る。ここに船橋発祥の地碑が設置されている。今渡っている海老川は、かつては川幅も広く、水量も多かったことから橋を架けることが難しく、代わりに船を横一列に並べて繋いで橋として利用したことから「船橋」の地名が起こったという。この橋より先が旧五日市村となる。


商店街を抜けた先の小山が、船橋大神宮こと意富比(おおひ)神社である。神話ではヤマトタケルの東国平定の際に、干ばつに苦しむ民衆のために天照大神を祀って祈願したことを創建としており、式内社として古くから存在していた神社である。


本殿は江戸初期に徳川家康によって寄進されたが、戊辰戦争で重要な書物とともに消失してしまった(船橋戦争)。その後、明治6年(1873年)に造営され、改修を繰り返して今に至っている。


西福寺の前には庚申塔がいくつか鎮座していた。江戸時代には「境内七反歩(約7,000㎡)」の広さだったこの西福寺もまた、戊辰戦争によって本堂が消失している。


大神宮北側の宮坂を登り、県立船橋高校の校舎を横目にグラウンド前に差し掛かると、路傍に小さい祠があった。馬頭観音などを祀っているようで、往時は宮坂も急坂で馬にはきつい坂だったかもしれないことを思い知らされる。


中野木交差点の一角に、庚申塔を集めた祠がある。文字が摩耗して見えなくなっているものがあるが、天保5年(1834年)と享保18年(1733年)の庚申塔があるという。


中野木交差点を越えると、街道は国道296号に合流する。すぐ右手あるのが徳兵衛地蔵堂。安政年間に疫病が流行った際、地元も名士が西福寺に土地を寄進した代わりに授かったものだそう。堂宇は昭和43年(1968年)に建てられたもの。
この地蔵堂の南側はJR東日本の車両基地になっており、地蔵堂の敷地の一部は車両基地建造のため売却したという。中野木交差点からこのお堂までの区間だけ習志野市であり、この先から再び船橋市になる。


成田街道入口という交差点を左折する道が水戸佐倉道・成田街道。直進する道は東金御成街道で、実は船橋宿の西向き地蔵からここまでは水戸佐倉道・成田街道と重複していた。東金御成街道は、慶長18年(1613年)に徳川家康が整備を命じた道で、将軍家の鷹狩場であった東金御殿までを直線的に結んでいる。
追分でもあるこの地点には、輪宝付きの立派な道標が建っている。明治12年(1879年)の比較的新しい道標である。


追分からすぐ左手に庚申塔群と安永6年(1777年)の成田山道標が置かれている。成田山道標の正面には「右なりた道」右側面には「左とうかね道」と刻まれているという。


前原東五丁目交差点の左手に道入庵がある。1873年(明治6年)に前原尋常小学校(現在の船橋市立前原小学校の前身)が境内で設立された。1675年(延宝2年)建立の延命地蔵は、二宮小学校前より移設したもので、前原新田を開拓したときにあったという聖徳太子作と伝わる地蔵の代わりに作られたものだという。


長い参道が特徴の御嶽神社に立ち寄る。1676年(延宝4年)創建の前原新田の鎮守だというが、1715年(正徳5年)に前原新田を開拓した上東野新助が江戸で買った蔵王権現像を祀ったことに始まるという話もある。


前原東と滝台の境に石碑が置かれている。この石碑の詳細は不明。滝台は古くを滝台新田といい、前原新田と同時期の延宝年間に開拓された土地である。


不明な石碑と道を挟んで向かい側に馬頭観音碑が4基並んでいる。一番右は寛政5年(1793年)のもので、これだけ馬頭観音像が彫られている。石碑に囲まれるこの道は、は木下(きおろし)道と伝わる。利根川の木下河岸(現在の印西市木下)は銚子からの物資輸送などで繁栄した場所である。


船橋市二宮出張所の街道を挟んで反対側に、二宮町道路元標があった。明治22年(1889年)に千葉郡滝台新田、薬園台新田、三山村、多喜野井村、前原新田、上飯山満村、下飯山満村が合併して二宮村が成立した。村名は三山村にある二宮神社に由来する。昭和3年(1928年)に町制施行し、二宮町になった。昭和28年(1953年)に船橋市に編入したため、二宮という名前は小学校名などに残るのみとなっている。


明治27年(1894年)に岩田長兵衛が建立した成田山道標がある。この人物は街道沿いに5基の道標を建立している。


薬園台公園・船橋市郷土資料館の向かい側にひっそりと天明3年(1783年)の道祖神がある。道祖神の脇の道が旧道で、この場所は薬園台集落の東端にあたるようだ。

薬園台公園内には明治天皇駐蹕之処の碑があり、明治6年(1873年)が小金牧の一部(大和田原)で近衛兵の演習を天覧した際、この場所を「習志野原」と命名した。現在の「習志野」の地名の発祥である。

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