気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

2020/09/14

【歩き旅】水戸佐倉道・成田街道 Day5 その①



5日目は京成佐倉駅よりちばグリーンバス本佐倉線で、前回終了した「山道」バス停まで向かいそこから歩き始めた。バス停の脇にある清光寺は、本尊である善光寺式三仏尊には正安2年(1300年)の紀年銘が入っており、県指定文化財となっている。また天文年間には、徳川家康の父・松平廣忠の分骨が安置供養された。本堂は佐倉城主・大久保忠朝により天和年間に建てられたもの。


本佐倉城址への案内板があったが、少し遠いので今回はパス。文明年間(1469〜1486)に千葉輔胤によって築城され、天正18年(1590年)に豊臣秀吉によって滅ぼされるまで、千葉氏の本拠地であった。慶長15年(1610年)には佐倉藩の藩庁が置かれたが、元和元年(1615年)に現在の佐倉城に移転し、本佐倉城は廃城となった。広大な城域に空堀や土塁が状態良く残っており、国の重要文化財にも指定されている。


上本佐倉の交差点で国道296号に合流。ここに五輪塔を乗せたよう石塔があったが、由緒などは不明。ただの「いけず石」かもしれない。


国道に出てすぐ左折。ここで船橋から苦楽を共にしてきた国道296号と今生の別れとなる。右手の駐車場脇にある小さな石碑は明治7年(1874年)建立の道標で、「東京へ十三里 東京道」「芝山へ五里 芝山仁王尊」「此方成田山道」と刻まれているという。国道ができる前はこの道標があるあたりから東に伸びる道があり、芝山仁王尊観音教寺へと続いていた。仁王尊の火事泥棒除け・厄除けにあやかって、江戸時代には江戸の町火消いろは四十八組がこぞって参拝していたという。


このあたりから酒々井宿が伸びていた。本佐倉城の城下町が徳川家康の関東入府に伴い再整備されたものが酒々井宿となり、上宿(新宿)、仲宿、下宿、横宿からなった。成田に近いことから宿泊目的の利用は少なかったようだ。


左手に大鷲神社がある。これは酒々井上宿の鎮守で、詳細は不明。上宿は通称「新宿」とも呼ばれ、宿内で整備されたのが一番新しい地域となる。


少し歩けば右手に八坂神社(牛頭天王社とも)がある。酒々井宿4町の鎮守で、上宿と仲宿の境にあたるこの付近が酒々井宿の中心であったとされる。例祭は「祇園」と呼ばれ、飾り神輿と揉み神輿の2基を担いで町内を練り歩くというもの。


境内には子安観音と思われる石像が置かれていた。台座には「上町」「中町」の銘が入っている。


酒々井宿で唯一往時の雰囲気を残す建物が、島田長右衛門・島田政五郎家住宅である。天正11年(1583年)、北条氏政のすすめで千葉邦胤が上総牧・下総牧の整備を開始。邦胤の家臣であった青柳四郎右衛門などが馬牧の管理を行うこととなった。この青柳家の子孫が島田家となり、慶長19年(1614年)には島田長右衛門らが牧士に任命され、幕府の野馬御用を務めた。広大な宅地の裏手には野馬会所(管理事務所)や野馬払い場(セリを行う場所)などが備えられ、佐倉七牧を管理していた。明治7年(1874年)からは呉服や太物の小売業を行い、現存する建物は明治10年(1877年)に建てられたもの。
分家の政五郎家は明治時代に灯油の製造などを行っており、油蔵棟が設置されていた。


酒々井町役場前交差点に酒々井町道路元標が置かれている。ここから東に伸びる道は、多古道、銚子道とも呼ばれる古道で、酒々井町内では内野牧の入り口まで通じることから「内野道」と呼ばれていた。また、この追分には高札場が設けられていたという。


宿場の中心近くには勝蔵院がある。元禄年間に佐倉城主・戸田忠真の夫人が難病にかかった際、酒々井の不動尊に祈願すれば治るという夢を見たことから、別地にあった不動堂をこの地に移設したところ夫人の病が治癒したという。これにより忠真が当寺に帰依し、不動尊を寄進したと伝えられている。


街道に戻って少し進み、左側に車が通れない細い道がある。ここを進むと石碑が大量に並べられた広場がある。ここは円福院神宮寺の境内らしいのだが、寛永年間に落雷で消失し、その後建物が再建されず今に至っていため、境内のみ残っている。


ここに「酒の井の碑」と呼ばれる古い板碑がある。摩耗が激しく目視では何もわからないが、蓮花と梵字の「キリーク」が刻まれているという。キリークという梵字は、かつて円福院神宮寺の本尊であった阿弥陀如来の種字で、この場所に存在している理由はわかるが「酒の井」とは関係はない。


鎌倉時代に「孝子酒泉(こうししゅせん)」という「親孝行をした息子の井戸から酒が湧いた」という話があった。この話がこの地に広まった際、麻賀多神社のお神酒に使用されていた円福音神宮寺の湧き水とマッチして、この湧き水は酒が湧いたという「酒の井」の伝説が生まれたと考えられる。一説には、元々が湧き水が多いことから「出水(しゅすい)」と呼ばれていた地名が、この伝説の広まりにより「酒々井」になったのではないかとも言われる。数年前には地元の有志により井戸も復元された。

0 コメント:

コメントを投稿