豊前街道は肥後・熊本を起点に豊前・小倉へ至る道とされる。江戸時代頃に長崎街道が整備されると、長崎街道との追分である筑前・山家(やまえ)までを豊前街道と称すことも増えてきた。
豊前街道は熊本(肥後藩)から北上する目線での呼び名だが、小倉から熊本を経由して鹿児島へと至る道という意味で「薩摩街道」という呼称もある。さらに鹿児島より先、薩摩半島をぐるりと周って坊津(坊泊)まで延びる道ということで「坊津街道」と呼ばれることもある。
また、豊臣秀吉が薩摩島津氏を征伐するために利用したことを機に一部区間では街道の整備が進み、「太閤道」とも呼ばれている。
江戸時代には宇土藩、八代藩、薩摩藩、人吉藩などが参勤交代で利用した(熊本藩の参勤交代は、まず豊後街道を経由して鶴崎(現:大分県大分市)へ向かい、そこからは船を使って瀬戸内海を経由して大坂まで向かっていた)。
明治に入り西南戦争が勃発すると、街道は軍隊の移動路として利用され、時折街道沿いでも衝突が起きるようになる。熊本に南下していくにつれ、新政府軍と薩摩軍が激戦を交わした痕跡が街道沿いに現れてくるのも九州の街道ならでは。
また歩行の1年前、平成28年(2016年)4月には熊本地震が発生。その現状をこの目で見ておくというのも目的の一つとなっている。
今回は豊前街道を熊本から山家とし、山家から南下する形で熊本まで向かうルートを採った。
ルート
山家(長崎街道追分)ー松崎ー府中ー羽犬塚ー瀬高ー原町ー南関ー山鹿ー味取新町ー熊本
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