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2023/12/30

薩摩街道・豊前街道 Day5 その①



この旅最終日。昨日の街道離脱ポイントである鹿央総合支所まではバスで移動し、ここから歩きを始める。畑の合間の道を歩いていると「元木の豊前街道里数木跡」の説明板があった。熊本の札の辻から数えて五里木があった場所で、かつては道の両側に榎が植えられていたが昭和20年代に枯れてしまったという。


広町の集落を抜ける。江戸時代には酒屋や紺屋などの商店が立ち並んでいたという。集落を抜けると「乙貝坂」の案内板があった。かつての難所だったようで、鬱蒼としたきつい勾配を下っていく。


田んぼの合間の道を抜け、県道119号を横断するとこの辺りで熊本市に入る。しばらく進むと再び鬱蒼とした上り坂にさしかかる。ここに「三十六のお茶屋跡」と書かれた豊前街道の案内板があった。三十六というのはこの場所の地名だという。この先の旧道は「凹道(おうどう)」と呼ばれる切通しの坂道となっており、加藤清正が軍事的観点に基づいて築いたものだという。


旧道を登っていけばよかったのだが、荒れ気味だったので今回は舗装路を迂回した。現道と旧道が合流するところに三十六のお茶屋跡の説明板があった。江戸時代にはこの看板近くに茶屋があったのだという。


坂を下るとビニールハウスが広がる。傍らに「天然記念物 一本榎跡」の標柱が立っている。江戸時代にはこの辺りから木葉(玉名郡玉東町木葉)への往還が伸びていたようだ。


九州縦貫自動車道を越え、左手の側道へ進む。ここに「一里木跡」の標柱がある。ここには四里木があったようだ。ここの分岐は右側へ進む。


ビニールハウスと用水路の間の道を進んでいくと五差路に出るので、カーブミラーのある方に進む。岩場がくり抜かれたところに「放牛地蔵」と呼ばれる地蔵が安置されている。
放牛地蔵は放牛という僧が享保年間に作成した石仏群のことで、熊本市を中心にこれまで107体確認されている。ここにあるのは74体目のもの。


坂を登っていくと県道3号に合流する。これを横断したところに「内空閑(うちくが)城跡」の説明板がある。内空閑城跡はこの看板の先を右に入った山の中にある。内空閑氏は明徳元年(1390年)に伊賀国より下向したと伝わる。戦国末期には菊池氏の家臣として頭角を表したが、天正9年(1581年)に島津軍に攻撃され内空閑城は落城、天正16年(1588年)に内空閑氏は滅亡した。


旧道は県道を横切らず、本村・山ノ上集落の方に緩やかに登りながら入っていく。集落を抜けると再び緩やかに下っていき、平田橋で豊田川を越える。平尾山を迂回するように麓の道を進んでいくと、ちょっとした集落に突き当たる。ここ味取町は寛永9年(1632年)に設けられた在町で、茶屋や商家が軒を並べていた。元禄年間にこの先の味取新町と分かれた。
説明板に「来民往還」の分岐点とあるが、これは現在の国道3号線と県道198号線に沿って北上して現在の山鹿市鹿本町来民(くたみ)に至る道を指すのだろうか。来民は柿渋をうちわに塗って防虫効果を高めた「来民渋うちわ」の生産で有名な地域である。


旧道を抜けると国道3号線の「植木町一木」交差点に合流する。少し南下して道の駅「すいかの里 植木」で休憩する。植木は水はけの良い土壌や温暖な気候からすいかの名産地として知られている。「くまもん」と「ひごまる」にエールをもらって先を急ぐ。


交差点を少し南下して、ドラックストアの手前に豊前街道の案内板。かつてここに三里木があったそうで、一つ前の交差点名にもなっている地名の「一木(ひとつぎ)」はこれに由来していそう。


国道は緩やかに右カーブしているが、旧道は直進して県道30号へ進入する。少し進むと大正時代の円柱型道標が置かれている。「小野泉水之道」と刻まれているようで、ここから東に進んだ植木町小野にある「小野泉水」への道標となっているよう。小野小町が生まれた際に、この泉水を産湯に使ったと言い伝えられている。


さらに南下した辺りから味取新町宿だったエリアだと思われる。元禄8年(1695年)に先程通過した味取町から分かれ、参勤交代全盛期は100軒余りの旅籠が並んでいたという。植木郵便局の先の交差点は三池街道(高瀬街道)との追分となる。三池街道は天正15年(1587年)の秀吉九州平定以降、熊本城主加藤清正により軍事目的で整備された街道。三池(大牟田市三池)には街道整備と同時に陣屋が置かれていた。元文3年(1738年)からは陣屋近くの稲荷山で石炭の採掘が始まり、「三池炭鉱」で知られるようになる。


味取新町の宿場を越えたあたりに菅原神社の扁額。植木天満宮と呼ばれているようで、味取新町が成立したときにこの場所に樹齢千年を超える松の木があったため、松の木天神として祀ったことが起源だという。また、この場所は明治10年(1877年)2月22日、西南の役の官軍薩軍両軍の城北での緒戦の地となる。

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