気の向くままにつらつらと。

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2023/09/03

薩摩街道・豊前街道 Day2 その④


 
県道86号線を南西に下り、桃太郎川を千束橋で渡り丘陵へ差し掛かる。成田山久留米分院明王寺の高さ62mの慈母観音像に見送られる。


国道3号線に合流し、二軒茶屋交差点で再び県道86号線へと戻る。


県道に差し掛かるとすぐに安政元年(1854年)銘の六十六部供養塔があった。福島城の城下町であり商業が栄えていた福島(現在の八女市本町)とを結ぶ福島往還との追分にもなっており、「右 はいんつか 左 ふくしま」と刻まれているという。


道は台地へと上っていくが、道の両脇は柵で囲われている。この辺りは久留米駐屯地高良台演習場の敷地が広がっており、街道はその合間を縫っていく。薄暗い道の端には、不法投棄防止の鳥居が点々と設置されていた。


台地を下り、相川(あいごう)集落に差し掛かったところに祠があり、手前に「廣川八十八ヶ所第十六番札所」と添えられていた。この札所は明治22年(1889年)に開設され、広川谷を中心に霊場が設けられた。


国道209号との交点には「明治天皇藤田御野立所」の碑が建っている。明治天皇は明治44年(1911年)11月14日に陸軍特別大演習を統監。実際に総監を行った場所はこの石碑から細い道に入っていった小高い丘の上で、そこに「大元帥陛下駐蹕之処」の碑が建っている。


国道209号を南下していく。盛徳交差点には「石人古墳」と刻まれた碑があった。この交差点から東に向かうと墳丘長105mの巨大な前方後円墳である「石人山古墳」があるが、ここへの案内だろうか。石室の前に武装した石人が置かれていたことから名前がついており、この石人は国の重要文化財に指定されている。


北小ゆめいろ橋と名付けられた歩道橋の麓に「一条町の一里塚跡」の説明板があった。一条町は元禄2年(1689年)頃に開かれた在郷町として賑わった町で、国道が整備されるまでは町の南北の入口に枡形もあった。


赤坂神社の入口に地蔵が置かれている。かつて赤坂神社があった場所には江戸時代に三原富次という人物が窯を開き、「赤坂焼」として知られていたという。昭和の頃まで窯元があったようだが、現在は無くなっている。


中ノ堤交差点の手前で右に入る旧道がある。旧道の途中には薩摩街道の説明板があった。それによると、伊能忠敬はここ赤坂で休憩したと伝えられているという。


旧道区間は僅かで、大堤信号機で国道に復帰する。上原々向山交差点から先旧道は国道は東に逸れる。納骨堂の敷地に旧坊津街道の案内板があって、ここが旧道であることを再確認させてくれる。


倉目橋を渡ると上原々(かんばらばら)という集落へ差し掛かる。集落の中心辺りに上原々熊野神社が鎮座している。現在の住所は筑後市大字熊野にあたるが、大字熊野にはここともう一つ熊野神社があるという。


街道が国道209号を突っ切る手前に薩摩街道の案内板。この辺りは「薩摩街道」と「坊津街道」どちらをメイン表記にするか悩ましいエリアのようだ。


羽犬塚上町の交差点の先、左手に社日神社がある。その前に種田山頭火の句碑「お経あげて お米もろうて 百舌鳴いて」が建っている。その隣の説明板によれば、この地の北側に「喜楽屋」という木賃宿があり、そこに山頭火が宿泊したのだという。


羽犬塚小学校前には羽の生えた犬のオブジェ。かつてこの地には、羽の生えた獰猛な犬がおり、旅人や家畜を襲って住民を困らせていたという。そんな折、この地に豊臣秀吉が薩摩の島津氏討伐のために訪問したところ、この羽犬に行く手を阻まれてしまった。なんとかしてこの怪物を退治した秀吉であったが、その強さと賢さに感心し、弔うための塚を作らせたという。


オブジェの台座には羽犬を退治した秀吉の姿が。


羽犬塚小学校の敷地にはかつての宿場の本陣にあたる御茶屋があった。羽犬塚宿は江戸初期に柳河藩か久留米藩によって整備された宿場。松崎・府中・羽犬塚は「筑後三宿」として重要視されていたが、羽犬塚の旅籠の数は8軒程と他よりやや少なめだった。

ここで急な雨に降られてしまったので、バスで撤退。本日はここまでとなった。

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