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2023/12/19

薩摩街道・豊前街道 Day4 その①



バスで再び南関に戻ってきた。南関宿の出口に構口があったようだ。関川を南関橋で越える。


南関の町を抜けたからか、道は緩やかな登り坂となっていく。左手に「八塚」の案内板があった。文禄元年(1592年)の文禄の役にて、南関城代・加藤清兵衛が息子と家人を8人の家臣によって救われたので、その霊を祀るために築かれたのだという。


緩やかな登り坂の先にちょっとした集落があり、その中央辺りに追分石があった。「右たかせ道」「左やまか道」とある。この分岐を右方向へ南下していくと、高瀬道こと高瀬往還を使って菊池川の水運で栄えた商業の街・高瀬(現:玉名市)へ辿る。薩摩街道は左へ進み、次の宿場である山鹿を目指すことになる。


山道区間に差し掛かるところに豊前街道十里木の案内板。少しずつ熊本に近づいていて安心する。


道は山を切り通して貫通させたような区間になる。足元が舗装されているのが救いだった。


旧道は九州縦貫自動車道で寸断されているようなので、南関17トンネルで反対側に出る。県道4号から斜めに入ると、小原(こばる)集落。かつては茶屋があり「小原茶屋」とも呼ばれる。


歴史の道案内板の先、また道が二又になる箇所があるが、小さな豊前街道案内板があるので案内に従って進む。南関第三小学校の前で国道443号に合流する。


肥猪(こえい)町に差し掛かったところに官軍墓地がある。西南の役にて薩軍と交戦して戦死した政府軍の将兵約180柱を埋葬している。大半はこの先の鍋田での戦闘によるものだという。


肥猪町御茶屋跡の碑が建っている。肥猪町は南関と山鹿の中間に位置し、半宿(いわゆる間の宿)として賑わいを見せていた。瀬口家住宅は参勤交代の際の御小休処として利用されており、「御茶屋」と呼ばれていたという。


肥猪郵便局跡記念碑があった。明治8年(1875年)に開業した肥猪郵便局は、市町村合併の影響もあり昭和42年(1967年)に大原村役場跡地に移転し、大原郵便局に改称された。それでも平成年間になっても洋風の建物が残っていたようだが、道路拡幅工事に伴って解体されてしまった。

郵便局跡の碑がある丁字路に歴史の道案内板があった。ちょうどこの場所が肥猪の中心地だったようで、道を挟んで反対側に高札場があったという。


集落の外れには日露戦争戦没者碑、道路改修記念碑、そして三宝荒神のお堂などが一角に集められていた。熊本城主加藤清正は熱心に荒神を信仰していたというので、その影響で広められたものだろうか。旧道はこれらの左脇を進み林の中を抜けていくのだが、気付かずにそのまま車道を進んでしまった。


車道も林の中を進んでいくが、すぐに抜ける。細い道と交わるところにある白い柱には「九里木跡」と刻まれており、隣には新しい豊前街道の道標がある。この右手の道が先程の旧道である。

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