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2023/09/01

薩摩街道・豊前街道 Day2 その②



「消えた薩摩街道 古飯」の案内があった。かつては丁度この辺りに古飯の南枡形があり、道は東に折れ曲がっていた。その道があった場所は現在田んぼになっていて、その代わりに直進に進む道が田んぼ間を抜けるように進んでいる。


田んぼを抜けた先に「平方郡境石」がある。文政12年(1829年)に御原郡と御井郡の境に設けられたもので、「北御原郡 従是北四百六間 古飯村丁場 南御井郡」と刻まれている。ここでいう「丁場」は人が多く集まる場所のような意味。ここから平方の集落に入っていく。


集落の合間を縫った道を抜けると「消えた薩摩街道 平方」の案内板があった。ここから南に向かう街道は水田開発によってなくなってしまった。


かつて7軒程の茶屋が軒を連ねていたという「茶屋」集落を抜け、国道322号を横切ると「光行土居」の案内板があった。


光行土居はこの地域の治水を目的に中世に整備された土手で、その道が薩摩街道としても利用されていた。かつての土居は一部にしか残っておらず、この案内板がある箇所には約300mの区間の土居が残っている。現在では桜並木として整備されている。


国道322号に合流してしばらく進むと小郡市から久留米市に突入する。宮ノ陣クリーンセンターの車両出口の辺りに「史跡一里塚」と刻まれた石碑がある。この一里塚は久留米城下から2里の位置にあたるもので、寛延3年(1750年)に設置されたものだという。


古賀茶屋橋の辺りからは古賀茶屋(こがんじゃや)の集落となる。立場茶屋の名前がそのまま地名として残っている。文政11年(1828年)から天保10年(1839年)にわたって、高木善助という商人が大坂と薩摩の間を往復した模様を書き綴った紀行文『薩陽往返記事』にて、古賀茶屋については「焼餅を売る店が4,5軒ある」というような記述があるという。


西鉄甘木線の線路を横切り、西の宮橋で太刀洗川を渡る手前に恵比寿像があった。


太刀洗川を越えた先に北野天満宮下宮がある。ここより東に1.5km程離れた西鉄甘木線・北野駅近くに、天喜2年(1054年)創建と伝わる北野天満宮があり、その本宮に対する下宮がこちらの神社となっている。


神代(くましろ)橋で筑後川を渡る。昭和15年(1940年)にはコンクリート製の橋が架橋されている。尚、老朽化に伴い平成30年(2018年)に新しい神代橋が架橋されていて、この写真の旧橋は取り壊されている。


筑後川は阿蘇山を水源として有明海に注ぐ一級河川。日本三大暴れ川にも数えられることがあるが、この日は穏やかな流れであった。


神代橋を渡った対岸には、「史蹟 神代浮橋之跡」の碑。


説明板が近くにあった。文永11年(1274年)の元寇・文永の役の際、この地域の有力者だった神代良忠によりこの場所に舟を並べて浮橋が作られ、これにより戦いに向かう肥後・薩摩勢などの大軍を渡した。これが筑後川最古の架橋となり、その後渡し船による渡船なども行われていた。

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