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2023/12/20

薩摩街道・豊前街道 Day4 その②



先程の旧道から車道を横切って進んでいくと、林の中を抜ける鬱蒼とした道が続く。これを抜けると栗の木か何かの畑が広がっている。豊前街道跡の標柱があるので一安心である。


豊前街道六本松の説明板がある。ここには六本の松が植えられ、街道のよい目印になっていたという。また、この場所は旧三加和町、旧菊水町、旧南関町の境に位置することから、村外れまで見送ったり出迎えたりする際にも目印となっていたという。


「めくらおとし」の標柱がある。全国的に同じような名前の場所が点在するのだが、大体は谷深い崖を指す。要するに盲目の人が落ちてしまうような場所ということだが、ここでは小川に2mほどの丸太橋が架けられていて難所であったことにちなむという。


めくらおとしの先で県道194号を横切り、再びに林道に入っていく。林を抜けたところに「豊前街道 白坂」の案内板があった。天正15年(1587年)に隈部氏が先駆けとなって発生した肥後国衆一揆では、山鹿の城村(じょうむら)城で国人衆が籠城する元へ、攻城する佐々成政に救援物資を送った立花宗成の軍の帰路に対し、和仁氏、辺春(へばる)氏、大津山氏がここ白坂で襲撃したと伝わる。和仁氏、辺春氏はこれを契機に田中城に籠城するが、約100日の攻防の末、小早川秀包らの毛利軍により落城。和仁氏は滅亡することとなった。


和仁川を平野橋で渡る。かつては平野の眼鏡橋と呼ばれる橋が架かっていたが昭和57年の洪水で流失してしまった。平野の集落を進んでいくのだが、この辺り旧道がよくわからない。「豊前街道平野」の標柱があるところに山際から出てくる道があったので、これが旧道なのかもしれない。標柱にある「池田右京邸跡」は、山間部の合間に位置することから参勤交代で休息にも使われることがあったという。


県道194号との交点のところに「参勤交代の道(豊前街道)」とある案内板があった。ここは「窪園」と呼ばれる地域で、数件の旅人宿があった。西南戦争の際に負傷した人々の手当をしたことらら「日本赤十字発祥の地」と言われるそうだ。日本赤十字は西南戦争時に「敵味方別け隔てなく救護する」精神のもとに、熊本洋学校に「博愛社」を設置することに由来するが、窪園のように救護にあたった諸村々の姿勢が発祥と言っても良いのかもしれない。


田んぼと民家の先は登り坂となり山道の様相。その後に急な下り坂を抜けて車道に下りる。ここに「八里木跡とヒジ曲り」の案内板があった。直近の坂は鋭角に登る急坂のため「ひじまがり」と呼ばれるという。八里木跡には榎が植えられていたというが今は何も残っていない。


岩村川を寺本橋で渡る。右手の上り坂の途中にある光行寺に立ち寄る。細川氏の参勤交代では休憩所として利用され、門の屋根には細川家の九曜紋があしらわれていた。


光行寺の隣には下岩官軍墓地がある。岩村から鍋田にかけての戦闘による戦没者・官軍将兵133人と軍夫16人が眠っているという。


用水路に沿って右手に曲がって進んでいくと、ちょっと立派な豊前街道碑と案内板があり、林の中を進んでいく道となる。


急坂を登っていくと車道と合流するところに看板があり、この坂が「腹切坂」という名前であることを知る。なんとも物騒なネーミングだが、この坂が屈指の難所であることを物語っている。一応、敵に追われる武士がこの坂で切腹したという伝説や、平家の落ち武者や細川家の書状を預かった飛脚がこの地で切腹したという様々な切腹伝説がこの坂には残されている。

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