気の向くままにつらつらと。

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©こけ
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2013/10/20

帝釈道 〜帝釈天で産湯を浸かりにいこう〜


前回のエントリー(http://rekisanpota.blogspot.com/2013/09/blog-post.html)で立石をぶらぶらしていた私だが、立石様の辺りを徘徊していたとき、中川沿いの道端にぽつりと佇む一基の道標に出会った。

正面には大きく「帝釋天王」と彫られている。
横側には「文政三(=1820年)庚辰歳四月」の文字が見て取れる。

このあたりで「帝釋天(たいしゃくてん)」といえば、言わずもがな、「柴又帝釈天」こと「題経寺」のことを指す。

つまりここから帝釈天へ通じる道があったというわけである。

そこで一体どのようなルートを辿って人々は帝釈天へ向かっていたのかを調査してみた。
参考にしたのは以下のような媒体。

・東京スカイツリー(R)ビューマップ 葛飾今昔まちあるき
http://www.katsushika-kanko.com/katsumaru/news/r/
神さま仏さま探訪記ーご利益をたどれば日本人が見える(著:小松美保子)



江戸から帝釈天へ向かうルートは主に2つあったとされる。

一つは、水戸街道を利用して千住→新宿(にいじゅく)、新宿で水戸街道を離れ国分道を利用して帝釈天へ向かう方法(緑のライン)である。

もう一つは、浅草から吾妻橋を渡り、曳舟を抜けて四つ木の渡しを越え、(おそらく立石道を通って)立石、そこからは諏訪野の渡しもしくは曲金の渡しを利用して中川を渡り、帝釈天へと至るルート(オレンジのライン)である。

ちなみに、立石からはより中川沿いを行く「帝釈枝道(青のライン)」も整備されていたようだ。帝釈枝道は諏訪野の渡し付近で帝釈道と合流しており、そこからは帝釈道と共通のルートを辿るようである。

今回発見した道標はオレンジのラインの起点にあたる道標で、立石道との追分地点に置かれたものと推定される。

この近辺には、他にも帝釈道の名残を示すものがいくつか点在するという話なので、後日追取材をしてきた。

□福森稲荷神社内の道標


オレンジのラインと青のラインの合流した辺りに、福森稲荷神社が鎮座している。
この神社は寛政8年(1796年)に創建されたとされているが、その敷地内に「帝釋天王通」と彫られた道標が置かれている。
この道標自体は安政3年(1856年)に建立されたもので、当時この場所付近にあった「諏訪野の渡し」を利用する参拝客に向けたものではないかと考えられる。

□新宿の道標


緑のラインこと「国分道」の入り口に、「帝釋道」と記された道標が立っている。
この道標は、明治30年(1897年)に建立されたもので、指文字が国分道(写真のさらにん右手に伸びる)を指しているのが特徴的である。
ちなみに写真右側に見切れているのは旧水戸街道である。

帝釈詣は江戸期から明治、そして現在までも人気のアクティビティとなっている。
時代の変化に伴って、交通も徒歩から人車・電車・車と変化してく様が、この近辺では見られるのが面白いところであったりする。