気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2022/02/27

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十六番 西新井大師不動明王



第25番の皿沼不動尊からバスで20分ほど揺られれば、西新井大師としても知られる総持寺参道に到着する。東京都内の初詣参拝者は明治神宮、浅草寺についで第3位で、知名度もそれなりにある寺院である。


総持寺の山門は天保4年(1833年)建立と推定されている総檜造りの楼門。訪問時は改修工事真っ只中(工期:2017年3月〜2018年11月)で、その姿を見ることはできなかった。今回の改修工事により、山門の修繕が行われただけでなく、山門を境内側に6mほど移動し、門前商店街との間にゆとりのある広場が作られた。


この時は山門から入れなかったので少し西側に迂回すると、路傍に古そうな道標があった。寛政8年(1796年)のもので、「是より左り 六阿ミ多 道のり十八丁 二者んめ道」とあるようだ。江戸時代に町民の間で流行した巡礼である「(江戸)六阿弥陀詣」は、春秋の彼岸に六ヶ所の阿弥陀仏を巡礼するというもの。全ての札所をちょうど丸一日かけて巡礼できる手軽さもあり、彼岸時期には各札所が賑わったという。その2番寺は沼田村(現在の足立区江北)にあった延命寺。余裕のあった巡礼者は、西新井大師に立ち寄り、その後千住宿を目指したという。延命寺は明治時代に廃寺となり、現在は近くの恵明寺に合併している。


総持寺は天長3年(826年)に空海が関東巡錫の際、この地で十一面観音像を彫り祈願したことに始まる。祈願を行うと枯れていた井戸から湧き水が溢れ出し、人々を疫病から救ったという伝説があり、その井戸がお堂の西側にあったことから「西新井」の地名が起こった。大本堂は昭和46年(1971年)に再建されたもので、秘仏の十一面観音像と弘法大師像を祀っている。


不動堂は本堂向かって左手にある。不動明王像は両脇に制吒迦童子と矜羯羅童子を従えており、それぞれ不動明王の「忿怒」と「慈悲」を表しているという。西新井に居を構える玉ノ井部屋出身の元大関栃東(現:玉ノ井親方)が優勝した際には、西新井大師から玉ノ井部屋まで優勝パレードを行った。このとき国技館に飾られた優勝額が不動堂内部に飾られていた。

霊場

五智山 遍照院 總持寺 西新井大師不動明王
所在地:東京都足立区西新井1-15-1
三十六童子:金剛護童子(こんごうごどうじ)

2022/02/26

【巡礼記】関東三十六不動尊 第二十五番 皿沼不動尊



都内住んでいてもなかなか乗らない交通機関の一つである、「日暮里・舎人ライナー」。日暮里から乗り込み北上していき、谷在家駅で下車する。東西に伸びる五色桜通りを西に進んでいくと、皿沼不動尊こと永昌院のお目見えだ。


永昌院の創建年代は不明だが、寶蔵寺の墓域を管理する御堂として草創されたものと伝わる。足立区には鹿浜と東和に「寶蔵寺(宝蔵寺)」があるが、どちらかを指すのか、あるいはそれ以外かはよくわからなかった。どちらも江戸時代以前の創建である。

寛永2年(1625年)に上野寛永寺が創建されると、幕府直轄の舎人領であった鹿浜から皿沼一帯は寛永寺領として寄進され、多くの寺院が建立された。この時期には阿弥陀仏の念仏講を中心としていたが、元禄年間以降の成田山信仰流行に伴い、講社を結成して成田山から「御前立不動明王」を勧請した。これが不動尊としての起源となる。慶応3年(1867年)に創建し、明治時代に中興され、天台宗寺門派となった。

近年になって現在の本堂である三心殿を竣工し、本尊の不動明王を新調した。階段を上がって2階から本堂に入ると、欅の一本彫で作成された日本最大級の大きさを誇る御前立不動尊を拝見できる。


境内には六地蔵尊と写真に見切れているが左手に梅ノ木稲荷がある。稲荷は創建時に勘定されたものと伝わり、御神体が梅の木に刻まれているという。


明治2年(1869年)建立の三界萬霊供養塔。どろぼう塚と刻まれており、毎年6月1日にはどろぼう塚供養とも言われる護摩行が行われている。

霊場

皿沼山 永昌院 皿沼不動尊
所在地:東京都足立区皿沼1-4-2
三十六童子:僧守護童子(そうしゅごどうじ)

2018/09/16

【歩き旅】水戸街道 Day1 〜下町をゆく〜



水戸街道は日本橋を起点にスタートし、千住宿で日光街道・奥州街道と分岐する。今回は千住宿の水戸街道分岐点から歩き始めることにした。


プチテラス前に「北へ 旧日光道中 東へ 旧水戸佐倉道」の道標がある。水戸街道はこの先の新宿まで佐倉道と同じ道筋をたどる。元々ここには天明元年(1781年)建立の道標があったが、現在は足立区立郷土博物館に保管されているという。
日本橋から日光街道・奥州街道と共にしてきた水戸街道はここで右折する。


右手に元禄4年(1691年)創建の千住氷川神社がある。境内社には稲荷神社、猿田彦神社と並んで聞き慣れない「高正天満宮」がある。地元の名主・高梨信平がその屋敷に住んでいた正木昌房に菅原道真像を譲り、これを氏神社で祀るようにしたものを「高正天満宮」と呼ぶことにしたのだという。


常磐線、つくばエクスプレスの高架をくぐると清亮寺がある。門前にはかつて樹齢350年の臥龍松があり街道に被さるように伸びていたが、昭和20年頃に壊死してしまった。徳川光圀の行列がこの場所を通行する際、本来であれば通行に邪魔な松を切ってしまうところを、槍を立てかけて休憩に使ったという名采配から「槍掛けの松」として有名であった。
今では松の有志を覚えている安永8年(1779年)建立の髭題目碑が門前に立つ。


住宅の一角に日ノ出神社がある。弥五郎新田にあった神社が荒川放水路の開削により川の底となってしまったため、そこにあった稲荷神社を五反野の西ノ宮稲荷神社に合祀、それをさらに分祠したものがこの日ノ出神社である。


街道は荒川の土手に突き当たる。以前は新宿までまっすぐ直進していた街道であるが現在では向こう岸の街道筋すら見えない。
荒川放水路は大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけて開削された人口河川であるが、これを横断するには下流にある堀切橋まで迂回する必要がある。泳いで渡るわけにもいかないので、しかたなく2km程迂回する。


街道に復帰して直進していくと「水戸橋跡地」の案内板に突き当たる。
水戸橋は寛永年間に架橋されたとされる橋で、案内板の脇には江戸明治期の橋台が遺されていた。水戸光圀がこの橋の袂に出た妖怪を退治したことから「水戸橋」と呼ばれるようになったという。
最近まで昭和30年(1955年)架橋の太鼓橋が街道を直進するように架かっていたが、橋によって堤防が欠けた状態になっていたため、防災上の観点から2012年頃閉鎖された。


現在の水戸橋は旧橋よりも50m程上流に位置する。旧橋より高い場所に架かっており、これで綾瀬川を越える。


小菅神社に立ち寄る。
明治2年(1869年)の版籍奉還によって、小菅県が設置された。県庁は旧幕府小菅御殿があった場所(現在の東京拘置所)に設置され、伊勢の皇大神宮を勧請した。
小菅県は明治4年(1871年)の廃藩置県により東京府の一部となり、社を田中稲荷神社の境内に移したものが現在の小菅神社である。


街道の脇に「鵜乃森橋」があった。この橋がかかるのは古隅田川で、足立区と葛飾区の区境になっている。


小菅三丁目交差点から少し離れた場所にあった隨喜稲荷神社に立ち寄る。「隨喜」とは仏”仏教において他人の善行を見て心に歓喜を生ずること”だという。小さい境内だが、富士講の登拝記念碑のようなものや小さな祠がある。
神社の由縁はわからなったが、三叉路の向かって右手の道が古くからある道で、神社自体も明治42年の地図に見られる。


小菅三丁目交差点には「立場」と刻まれた石とベンチのようなものが置いてあった。ここに千住宿・新宿間の立場(休憩所)があり、江戸時代より受け継がれていたという。


街道は古隅田川に沿うように伸びている。旧道への分岐では葛飾区が設置した案内板もあるのでわかりやすい。
ここから先、街道の線形は大きく弧を描くように曲がっていくため「大曲」や「蔵の内」と呼ばれるポイントである。


旧道を進んできた道は、西亀有三丁目の交差点で都道407号へ合流する。現在の地名は「亀有」だが、大正の頃には「道上」という地名があった。旧水戸街道(当時は陸前浜街道と呼ばれた)の道沿いにあったことに由来するのだろうか。現在では道上小学校や道上保育園の名前に名残が見える。

道上小学校東の交差点を越えたあたりに千住宿から一里の場所にあたる一里塚碑がある。隣には水戸黄門と助さん格さんをモチーフにした像が建っている。


葛飾区亀有といえば、週刊少年ジャンプで計算され単行本巻数のギネス記録も持っている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の舞台として有名。街道沿いにはキャラクターの像がいたる所に飾られている。「本田」は普段は気弱だが、バイクのハンドルを握ると性格が豹変することで有名なキャラクター。
亀有は室町時代以前は「亀無」という地名であったが、江戸時代になって「亀有」となった。


中川を中川橋で越え、すぐに右に曲がれば千住宿の次の宿場である「新宿」の町並みが広がる。かつては「あらしゅく」という呼び方だったが、現在の地名は「にいしゅく」となっている。宿場全体が「コ」の字型にまがっており、下宿・中宿・上宿から形成されていた。千住から近いこともあり本陣は置かれておらず、小規模な宿場となっていた。
水戸街道と佐倉道の追分があり交通の要衝であったため、室町・戦国時代には既に宿場が形成されていたとされる。
現在では都内の住宅街エリアのため宅地開発が進んでおり、往時を偲ぶものは殆ど残っていない。


宿場の中心にほど近い場所にある日枝神社に立ち寄る。創建年代は不明であるが、宿場の成立と同時期の室町・戦国時代には何かしら祀られており、旧別当寺の雲海寺が永禄2年(1559年)創建のため、その時期に神社が創建されたと考えられる。
平成20年(2008年)に社殿等の造替がされたため、建物は非常に綺麗な状態であった。特徴的な山王鳥居の赤が映える。


宿場を越えたあたりに石仏群がある。道路拡張と用水埋立工事に伴って、地蔵菩薩などの石仏13体と八大龍神石碑をここに集めたのだという。このあたりの道は訪問の数年前にも通ったことがあるのだが、その時に比べてさらに道路が整備されていたように感じた。


石仏群の隣には「帝釈道」と刻まれた道標がある。柴又帝釈天へ向かう道を案内したもので、明治30年(1897年)建立の道標である。


この日は金町三丁目の交差点までで終了。最寄りの金町駅から帰宅することにした。

2014/06/13

牛田と関屋は近くて遠い -東武と京成の殴り合い-


墨田区を根城とする私にとって、東武伊勢崎線(とうきょうスカイツリーライン)は主要な交通手段の一つである。
とはいえ、伊勢崎線のみを利用して移動するとなると、目的地は北千住くらいに限られてしまう。そんなとき地味に役に立つのが、北千住の一つ手前「牛田駅」である。
牛田駅に何かランドマークがあるという訳ではない。強いて言うなら「京成関屋駅」というランドマークがあるくらいである。そしてこの関屋駅と牛田駅が徒歩1分で乗り換え可能という好立地に位置しているのである。
京成本線を利用すれば、西に向かえば日暮里・上野の山の手東サイドに出れるし、東の市川・船橋といった千葉の主要エリアに向かう際にも便利である。

先日、牛田駅を利用した際に関屋駅との乗り換えが快適すぎて、ふと疑問に思ったのである。なぜこんなにも近接した場所に2つの駅が設置されたのだろうかと。そして、何故異なる駅名を冠しているのかと。

どうやらかつての東武vs京成の鉄道操業権をめぐった争いの名残のようだ。

東京・私鉄ブームの先駆け

1897年(明治30年)に創業した東武鉄道の最初の路線として、東武伊勢崎線は1899年(明治32年)に北千住−久喜間を開業した。創業時の路線計画では、東京市本所区から下千住(現:北千住)を経由し栃木県足利市までを結ぶ区間を想定していた。
もちろん全路線を一気に敷設という訳にはいかないので、徐々に路線を拡大していくこととなる。
1902年(明治35年)には、吾妻橋(現とうきょうスカイツリー駅)−北千住間が開通し、当初予定していた本所を起点とした路線が実現した。

一方その頃、成田山新勝寺への参拝客の鉄道輸送化を目指し、東京市本所区押上から千葉県印旛郡成田町までの区間を計画した京成電気軌道株式会社が1909年(明治42年)に設立された。1912年(明治45年)には押上−市川(現江戸川駅付近)と曲金(現高砂)−柴又間を開業した。

それぞれ本所を起点に東武鉄道は日光方面を、京成電気軌道は成田方面を、参拝客輸送を柱に延伸していく。


上図は1919年「東京首部 二万五千分之一地形図 東京近傍7号」から現牛田駅・京成関屋駅付近を臨んだものである。現在伊勢崎線は、北千住−牛田−堀切−鐘ヶ淵−…と駅が設置されているが、当時は牛田駅・堀切駅は存在しなかった。そしてこの地に京成の手は及んでいなかった。

浅草をめぐる攻防

東武鉄道の東京側ターミナル駅は、1910年に駅名を業平橋から改称し、浅草駅となった。浅草駅とは言うものの、浅草の中心地である雷門は隅田川を挟んで対岸に位置し、距離も多くあった。東京の中心部への乗り入れを果たしたい東武鉄道は、どうにか浅草の中心地、あわよくば上野まで延伸しようと計画を立て、路線計画を申請していた。
1924年(大正13年)には、浅草雷門駅(現浅草駅)までの路線延伸の認可が降り、隅田川を越える路線敷設に着工した。ところが工事の進捗は順調とは言えなかった。やはり隅田川という大物を越えるとなると一筋縄ではいかない。さらに浅草雷門駅の設計に変更があり、工期は長期化していくこととなる。

一方その頃、京成電気鉄道は焦っていた。
京成の東京側ターミナルは、当時の浅草駅からほど近い押上駅であった。とはいえ、都心へは市電乗り換えが必須という不便さ故、京成もまた浅草・上野方面への延伸を申請していた。
6度目の出願の際に発覚したのは、京成の出願を有利に進めるために、16万円(現在価値で約3,000万円)が東京市議会や衆議院などに渡っていたということであった。
1928年(昭和3年)、この「京成電車疑獄事件」の発覚により、社会的批判を受けた京成は浅草への乗り入れを断念することとなった。

都心乗り入れにはまだまだドラマが

京成が事件を起すのと時を同じくして、1928年(昭和3年)、「筑波高速度電気鉄道」が日暮里から流山を経由し筑波山まで至る免許を取得した。実はこの会社、免許を取得したものの実際に施行する予算を持ち合わせておらず、免許の売却により利益を得ることを目的としたものであった。
どの会社に売却を持ちかけようかと考えたとき、すぐさま東武・京成の名が浮上し、実際に話が持ちかけられた。しかし、東武はこの話をあまり旨味がないとし、保留状態にした。一方、京成にとって都心進出の足がけにもってこいの話であるが、当時京成が所持していた路線との兼ね合いが問題になった。


上図は1931年(昭和6年)発行の「最新番地入東京郊外地圖」より、上野・日暮里と路線の位置関係がわかる部分を臨んだものである。東武・京成は赤線で示され、浅草駅から伸びる東武と押上駅から伸びる京成が、隅田川東岸で凌ぎを削りあっている様が見て取れる。
京成の都心延伸の基点の一つである押上からの延伸は、先の事件によって実現が難しくなっている。二つ目の基点が1928年(昭和3年)に向島から分岐した白鬚線である。向島から白鬚に伸びる路線をそのまま北西にのばしていくと、新たな赤線の軌道に接続されるのがわかる。三輪を起点としたこの路線は「王子電気軌道」である。

先の事件により浅草ルートを断たれた京成は、王子電気軌道との直通により都心乗り入れを果たそうとしていたのである。しかし、白鬚まで支線を伸ばしたものの、接続したところで実質的な都心には直接乗り入れ出来ないため、計画の是非が問われていた。

筑波高速度電気鉄道は、路線の利便性を考慮し、最終的に停車駅を、上野−動物園前−日暮里−三河島−千住−西新井−八幡−…と変更し、最終決定とした。何とかこの路線を手に入れたい京成であったが、現行の京成の路線から離れているのが気にかかった。
そこで京成は、立石−高砂間に新駅を設け、この新駅と千住間を支線とするルートを考案。この支線の建設を条件に、京成は筑波高速度電気鉄道を吸収合併を打診し、実現することとなった。

都心乗り入れのため、まず日暮里と新駅である青砥駅を結ぶ路線の開通を急ピッチで進めていった。ほとんどの工事は筑波高速度電気鉄道名義で行われ、新線開通の1年前、1930年(昭和5年)に京成が吸収合併を果たした。

東武が免許権の取得にあまり積極的に動かなかったのは、当時の私鉄のパワーバランス的に合併先は東武以外にないだろうと考えていたためと言われている。後々筑波高速度電気鉄道を買収する画策だった東武は、京成の合併にひどく激昂したようだ。

東武鉄道は1931年(昭和6年)5月25日に、業平橋−浅草雷門間を開通させる。
しかし、遅れることわずか半年足らず、京成は同年12月19日に青砥−日暮里間を開通させるのである。このとき設置された駅の一つが「関屋駅」である。

左図は1934年(昭和9年)発行「新興大東京市制全圖」。京成関屋駅が東武伊勢崎線の堀切−中千住間のなんとも丁度いい位置に座している。堀切・中千住駅にプレッシャーを効かせる絶好の位置である。
千住町大字関屋町と大字曙町の中間の位置にあることと、かつてこの地が「関屋の里」として知られる景勝地であったことが駅名の由来とされる。


そして左図は1939年(昭和14年)発行「大東京新地圖索引式ハンディ版」からほぼ同じ場所を見たものである。
関屋駅の設置の翌年9月1日、東武伊勢崎線「牛田駅」が開業した。
かつて江戸期に牛田村があった地であり、その名残が千住町字牛田として残されていたところを駅名に採用したのであろう。
これまた関屋へのプレッシャーが尋常でない。名称をあえて異なるものにしたのも、明確な差別化とライバル心に由来するといってもいいだろう。

時代の流れとともに私鉄競争も冷えてきた。東武・京成もJRには敵わない。同じエリアを走る私鉄同士、協調姿勢を採らなくてはやっていけなくなってきた。
私鉄バトルの象徴であった牛田・京成関屋も相互連絡運輸を行っている。
ではいっそのこと、駅名を統一してしまうのはどうか。
平成23年に足立区が実施したパブリックコメントでも、「京成関屋・牛田駅の一本化」が要望として寄せられていた。しかし、対する区の回答は「現状では困難な状況」とのこと。
参考:足立区総合交通計画(案)パブリックコメント実施状況および意見に対する区の考え方について(PDF)

時代は流れたとはいえ、根底にある憎しみにも近いライバル心はなかなか拭えないのだろうか。二つの駅は手を差し伸べ合いながらも、横目で睨みを効かせあっている。