気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

2021/11/28

【宝珠稲荷神社】江戸歌舞伎と木挽町と板倉家



「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と称されるほど、江戸市中には稲荷神社が数多く点在した(稲荷神社についてはこちらも参照)。銀座三丁目の木挽町通り沿いにひっそりと佇む「宝珠稲荷神社」も、そんな数多の稲荷神社の一つに過ぎない。知名度も無ければ、ガイドマップなどで紹介される機会も少ない神社である。


境内に磨れた金属の由来版があった。
宝珠稲荷神社は一六一五年の頃三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり
内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として今名高かりし板倉勝重の次男として一五八八年後陽成天皇の御代天正十三年の頃の生れである 重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍今として鎮台に務めたるも不幸にして島原に於て年令五〇才にして戦死したるものなり 
時の将軍は家光であり第一一〇代後光明天皇の御代である内膳匠の兄周防の守重宗は下總の国関宿の城主なり 年経て一七六〇年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり
明治の維新に於ける亀井滋玄の功積は太鼓稲荷と共に有名なり 更に大正七年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町三丁目氏子に寄進せられ一九五〇年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至るものなり
つまりこの神社は板倉重昌の江戸屋敷の屋敷神として祀っていたものを、地元に引き継いだものだということである。

嘉永年間(1848〜1854年)刊行の江戸切絵図より、木挽町付近の様子をみてみよう。



図は上が西となっており、西側を南北方向に流れる三十間堀と、東側を流れる築地川に囲まれた木挽町エリアの一角に広大な「板倉周防守」の屋敷が見て取れる。「■」印がついているので、隠居藩主や大名の跡取りが定住する「中屋敷」に該当する。

木挽町は江戸初期に江戸城を改修する際の木挽職人(鋸引人夫)を多く住まわせたことに由来する地名である。その後、寺や大名屋敷として使われるようになり、江戸の人口増の影響を受けて特に三十間堀沿いを中心に町人にも利用されるようになった。

話は江戸歌舞伎の創始についてに変わる。
歌舞伎は元々上方で発祥した文化であるが、それを真似て江戸でも寺社や河原などで興業が行われていた。江戸での常設の芝居小屋は、寛永元年(1624年)に猿若座が中橋南地(現在の京橋一・二丁目あたり)で櫓を上げたことに始まる。

この江戸歌舞伎創始に伴う一連のストーリーが、江戸歌舞伎360年を記念して昭和62年(1987年)に『猿若江戸の初櫓』というタイトルの歌舞伎作品として初演された。作中には芝居小屋設置の許可を町奉行「板倉四郎左衛門勝重」に頼みこむシーンがあるが、宝珠稲荷神社の由来板にもあった「板倉(四郎右衛門)勝重」の名前を拝借しているのは明らかである。板倉勝重は子の重宗と共に京都所司代時代に『板倉政要』と呼ばれる法令集兼裁判説話集をまとめた人物。その中に「大岡裁き」の元ネタと言われる「三方一両損」などがあったことから、後世に講談師や戯作者により様々な美談が生み出され、いつしか「名奉行」と称されるようになっていた。勝重は猿若座設置の寛永元年(1624年)に没しているので、江戸歌舞伎の創始に関わっていたかどうかも怪しいところではある。

勝重の次男・重昌は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で豊臣方との交渉を行うなど幕府への功績が認められ、寛永14年(1637年)の島原の乱では幕府軍の総大将に任命される。しかし、重昌が藩主を務める三河国深溝藩(現在の愛知県額田郡幸田町深溝が本拠地)は小藩であったことなどが原因で、現場の統率が取れず、幕府も大将を忍藩主・松平信綱に変更して増援を行うことを決定した。この話を知った重昌は手柄を取られたくない余りに寛永15年(1638年)に総攻撃を行うも、やはり統率が取れず、自身も突撃した結果鉄砲が被弾し、戦死してしまう。江戸屋敷は兄・重宗が引き継いだため重宗の官位である「周防守」が切絵図に記載されているようだ。

木挽町周辺は、寛永19年(1642年)には山村座が木挽町四丁目に、慶安元年(1648年)には河原崎座が木挽町五丁目に、万治3年(1660年)には森田座が木挽町五丁目に立て続けに芝居小屋が設けられた。そのため木挽町は芝居町として江戸町人に認知されるようになる。しかし、天保12年(1841年)水野忠邦による天保の改革により、浅草猿若町に芝居小屋の移転が行われると、以後木挽町一帯の賑わいは収まっていった。


閑散としていた木挽町だが、明治維新後に再び歌舞伎で脚光を浴びることとなる。これが明治22年(1889年)の歌舞伎座開業。現在の歌舞伎座は平成25年(2013年)完成の第5期の建物である。

令和3年(2021年)の「三月大歌舞伎」では第一部として『猿若江戸の初櫓』が上演された。脈々と木挽町に息づいてきた江戸歌舞伎は、2024年に400周年を迎えることとなる。

2021/09/04

【雑記】稲荷神社がやたらと「正一位」を主張してくる件


 

街歩きをしていると、よく神社の幟などに「正一位」と記されているのを見かける。これはおそらく神社の「位」とかそういうものなのだろうと推測できるが、一つ違和感を感じた。格があまり高くなさそうな路傍の小さな神社ですら「正一位」を掲げているのだ。

また、「正一位」があるのであれば、「正二位」など他の位もあると推察されるが、自分の記憶では正一位以外を掲げている神社を見たことがない。そこでこれまで街歩きで撮影した写真を改めて見返してみた。やはり「正一位」を掲げている神社は大小様々で地域も様々な場所で見つかったし、「正二位」などの位は見つからなかった。しかし、「正一位」を掲げる神社の共通点に気づいた。

すべて「稲荷神社」だったのである。

「正一位」とは何か

そもそも「正一位」とは何なのかというと、「位階」の中の「神階」もしくは「神位」の中の「文位」と呼ばれるものの一つである。包含関係を表すと「位階」⊃「神階もしくは神位」⊃「文位」となる。

「位階」は国家が定めた身分を表す序列のことで、「冠位十二階」の延長線上で官職の序列を定めるために利用されていた。しかし時代を経るにつれ、年功序列制度や他の身分制度が出現し、これらが重要視されるようになったため、位階の仕組みは形骸化してスキームだけ現在まで残っている。

「位階」のうち人に対してではなく神に対して序列を付けたものが「神階」や「神位」と呼ばれるものである。武勲を上げたものに授与される「勲位」に対して、通常の序列を「文位」と言い、通常「位階」といえば「文位」を指す。文位は「正六位」から「従五位」→「正五位」→「従四位」→「正四位」→・・・と15段階に分かれており、その最高位が「正一位(しょういちい)」である。

神社では一般的にいわゆる式内社、官社、村社などの「社格」をもって序列を付けることが浸透していたため、位階による序列はあまり気にされていなかった。また、天皇の即位などの度に進階が行われており、人と違って無期限に存在する神は、当初は低い位であっても進階を重ねることで多くが「正一位」となっている。

稲荷神社が「正一位」を掲げるワケ


稲荷神への位階は、天長4年(827年)に淳和天皇が崩御した際に初めて授与された。崩御の原因を占ったところ、東寺の五重塔建設のため稲荷山の御神木を伐採したことによる祟りであることがわかり、怒りを鎮めるために当時位階のなかった稲荷神に対して「従五位下」を授けたのだという。稲荷神はその後進階を重ね、仁和3年(887年)の六国史終了時点では「従三位」、そして天慶5年(942年)に「正一位」となった。

神階はあくまで「神」に対して授与されたもので、「神社」に対して授与されたものではない。そのため、本来稲荷神として「正一位」を掲げることができるのは稲荷神の大本、京都・伏見稲荷神社の宇迦之御魂神のみである。全国にある稲荷社の中には伏見稲荷神社から分祀したもの多くあるが、本来神階を引き継ぐためには勅許が必要であった。しかし、10世紀頃に律令制が実質崩壊すると、位階の仕組みも厳密ではなくなり、分祀先の神社が勝手に神階を継承するケースも出現してきた。

江戸時代になると稲荷信仰は商売繁盛の神として商人を中心に流行した。神階の最上位である「正一位」を掲げると、あまねく神が静まるとされ、「正一位」をあわせて勧請したいと考える人も増えてきたという。

寛政4年(1792年)、とある百姓の藪にできた狐の棲家に陰陽師の今村頼母が「正一位豊浦稲荷大明神」の祠を勧請するという出来事があった。伏見稲荷とは無関係な者が正一位を勧請するのは如何なものかと、奉行所より伏見稲荷に対して問い合わせがあった。伏見稲荷からは、正一位稲荷大明神の御神体の勧請は伏見稲荷の一子相伝で実施されており、他所へ伝授もしていないので、他からの勧請は迷惑だと回答している。

ともあれ、分祀した社に「正一位」を掲げることは伏見稲荷としては問題ないと判断されたことになり、分祀先の「正一位」の妥当性が間接的に担保されることとなった。

神道界の覇権争いにより「正一位稲荷神社」が爆増する


伏見稲荷が遺憾の意を表したとはいえ、伏見稲荷や稲荷社以外が勧請を行う例も増えてきたのも事実である。特に顕著だったのが「吉田家」と「白川家」による勧請である。

吉田家は「吉田神道」と呼ばれる仏教から独立したはじめての神道説を唱えた流派として知られ、室町時代以降宣教活動により朝廷や幕府の支持を獲得していった。文明14年(1482年)には「宗源宣旨」という朝廷の宣旨に似た免許状の発行を開始し、吉田家独自に神階を授与していた。寛文5年(1665年)には江戸幕府が「諸社禰宜神主法度」を発し、これにより吉田家が全国の神社や神職を束ねる役割として公認されることとなった。

白川家も古くから神道における実務担当の役割を長らく務めており、神道上の立場は吉田家よりも上になる。朝廷からの位階授与を執行していたのも白川家である。しかし、江戸初期の吉田家の勢いに呑まれ、事実上の実権を奪われる形となった。そこで白川家は神社関係者だけでなく、農民や大工などを取り込んで勢力の拡大を図った。文政年間(1818〜1830年)末頃から稲荷勧請に力を入れだした白川家により、結果的に東北・関東・北陸を中心に稲荷勧請が進むこととなる。この頃は町民文化が隆盛を誇り、地方から伊勢参りや西国巡礼のため関西へ訪れる人も多かった。そこに目をつけた白川家は、旅人に対して稲荷勧請を積極に行ったため、結果的に京都・伏見稲荷から遠い場所での勧請が広がっていったのである。

吉田家や白川家にとって、稲荷勧請は自家の勢力拡大をする上で資金繰りの面でも大きな役割を果たしていた。勧請時に納める金額は基本的に願主の「お気持ち」次第で変わってくるが、おおよその相場は年代や願主の立場などの諸条件により決まっていたようだ。さらに「正一位◯◯稲荷大明神」のように、個人名や地名などを冠して勧請する場合には、縁起がよくなるとしてさらに割高になっており、「正一位」の神階は格好の「商材」となっていた。

新田開発などにより農業神としての稲荷社の需要が増えてくると、資金に乏しい農民層への勧請が必要不可欠となってきた。そこで勧請を手軽にできるようにするため、江戸期の後半になると勧請に必要な金額が減少していき、ツケ払いや切手(小切手のようなもの)での支払いも許容するケースも出てきた。これにより規模の小さい稲荷社が増加し、おおよそセットで「正一位」のオプションが付くこととなった。

両家が勢力拡大と資金繰りのため勧請を繰り返した結果、江戸周辺には「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるほど稲荷神社が増え、ほとんどの場合「正一位」が冠されたため、「正一位」といえば稲荷神社とまで言われるほどとなった。

神階の制度は明治時代に撤廃されたが、今でもかつての名残で「正一位」を掲げる稲荷神社が多数残っている。

参考文献

2021/08/10

【歩き旅】碑文谷道 その②


わくわく広場の向かいの細道を入ったところに「国藏五柱稲荷大明神」があった。小さな祠で由緒も不明である。「国藏」とは何を指すのだろうか。「五柱」は祀っている神様の数であろうが、祭神の記載等はなかった。なお、2020年頃に隣の区画に移転し、その際に社殿などが新調されたようなので、永く地元に根づいた神社なのだろう。


進んでいる道は品川用水の桐ケ谷分水跡。北側に長應寺という古刹がある。元々は文明11年(1479年)、三河国西郡(現:愛知県蒲郡市)に上ノ郷城主・鵜殿長将によって創立。永禄5年(1562年)に上ノ郷城が落城した際に長應寺も被災したが、天正18年(1590年)に家康が江戸に入府した際に、家康の側室で鵜殿長将の孫にあたる西郡局によって日比谷に再興される。その後竹川町(現在の銀座7丁目あたり)を経て芝の伊皿子に移転すると、安政6年(1859年)にはオランダ公館として利用されることとなる。寺院としての業務ができないこともあり経営難に陥るが、北海道開拓事業に目を付けた当時の住職が、開拓地での布教を目的に北海道天塩郡幌延町に入植し、明治32年(1899年)に「法華宗農場」を開設した。農場の開設費用のため芝の敷地を売却するなどしたが、残された一部の塔頭寺院が墓碑や仏像などと共に、明治39年(1906年)に今回訪れた現在地に移転した。同じルーツの寺院が北海道と東京に同時に存在する稀な例となっている。
 

京極稲荷神社という小祠があった。ここは讃岐国丸亀藩主・京極家の下屋敷「戸越屋敷」があった場所。地元の野菜などを上屋敷に共有していたことから、地域住民と京極家の結びつきも強く、明治4年(1871年)の廃藩置県により京極家が帰国する際、屋敷内にあった神社を地域住民に譲り、現在に至っている。


変速十字路の後地交差点に差し掛かる。この北側にあるライフ武蔵小山店の入り口脇に、朝日地蔵尊がある。寛文7年(1667年)の造立とされ、九品仏の浄真寺を開山した珂碩上人が芝増上寺に通う際、このあたりで朝日が登ることから朝日地蔵と呼ばれるようになっという。


祠の前にある道標は寛政元年(1789年)に建てられた道標で「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれている。後地交差点は「地蔵の辻」とも呼ばれており、北に向かうと目黒不動尊、西に向かうと碑文谷仁王尊に向かう分岐点となっている。近くに煤団子を売る店があったことから「煤団子の辻」とも呼ばれていた。


平和通りを進んでいき、目黒区に入る。目黒平和通り商店街は戦前に映画館があったことで一帯が発展していたが、空襲の被害に遭った。終戦後すぐにバラック街が形成され、現在の商店街の礎を築いた。鉄道の駅に接続しない商店街は淘汰されてしまうことが多いが、目黒周辺は人口の多さもあって、現役の商店街が幾つか残っている。


商店街を抜けた先に鬼子母神堂がある。境内の説明では元和2年(1616年)にこの地に勧請したというが、品川区西小山の摩耶寺にあったものを明治年間に移設したものだという話もある。


境内の脇には石碑がいくつか建てられており、僅かにこんもりしている。これは「法界塚」として戦国時代以前より記録が残る古塚で、法華寺(圓融寺)の経塚(経典を埋納した塚)か古墳と考えられている。


圓融寺の東門手前、目黒区立碑小学校のグラウンド前に庚申供養塔がある。元々圓融寺の門前にあったものを再建して移設したもののようで、昭和31年(1956年)の比較的新しい供養塔である。


そしてこの道の目的地である圓融寺に到着。東門から中に入る。


境内に入り東門からの参道を進むと、本堂が見えてくる。阿弥陀堂とも呼ばれるこの建物は昭和50年(1975年)建立で、本尊の阿弥陀如来像を安置している。


阿弥陀堂の南側にある一回り小さなお堂は、旧本堂である釈迦堂。室町時代初期の建立とされ、東京都区内最古の建造物である(都内最古は東村山市の正福寺地蔵堂)。昭和25年(1950年)には国の重要文化財に指定されている。昭和27年(1952年)に防災の観点から銅葺きに改められたが、かつては茅葺きであった。


さらに南に進めば仁王門が大きな口を開けている。正確な建立時期は不明だが、仁王像が造立された永禄2年(1559年)と同時期と考えられている。江戸時代に寛文期・元禄期の二度に渡って大規模な改修を行っているため、建立当時の原型はほとんど残っていないという。

そして仁王門の両脇を固めるのが黒仁王尊像。現在はガラス張りになっていて、写真を撮ると反射してほとんど見えないが、確かに阿吽の仁王尊像があった。元禄11年(1698年)に圓融寺が天台宗に改宗後、黒仁王尊ブームによって多くの町人が集まるようになると、信心深い信徒が断食修行を行うための「お籠堂」が仁王門の周囲に設置され、仁王尊の底にも人が入れる空間が設けられていた。

仁王像は長らく造立時期が不明であったが、昭和42年(1967年)の解体修理の際、吽形像の体内から作者と祈願年が記された木札が発見され、永禄2年(1559年)に造られたことがわかった。昭和44年(1969年)には東京都の重要文化財に指定されている。


碑文谷道は圓融寺までの道のりとして完歩したが、ついでに近くの碑文谷八幡宮にも立ち寄ってみる。創建は不明だが、鎌倉時代に畠山重忠の守護神を祀ったことに始まるという。ここには神仏分離令が発令されるまで、圓融寺の子院である神宮院が置かれていた。


境内には「碑文石」と呼ばれる梵字が刻まれた石が安置されていた。室町時代頃に制作されたものとされるが、その目的などは不明である。この石が「碑文谷」の地名の由来とされている。

ここで本日の小旅行は完了とする。

2021/07/27

【歩き旅・ルート】碑文谷道 〜黒仁王を拝む道〜



徳川家康によって東海道が慶長6年(1601年)に整備され、人々の往来が盛んに行われるようになると、「寺社仏閣への参拝」が町人にとってメジャーな娯楽の一つとなった。江戸から数えて東海道1番目の宿場であった品川宿は、当時江戸で人気のあった目黒不動尊(瀧泉寺)などへ向かう起点としての役割も果たしていた。 

そんな品川宿から参拝しやすい寺社の一つに「法華寺」があった。碑文谷村にあった法華寺には黒漆塗りの仁王像が安置されており、これが江戸時代中期に「碑文谷の黒仁王」として広く知られるようになると、大勢の参拝客を集めることとなった。

法華寺は天保5年(1834年)に「圓融寺」と改称するが、東海道品川宿から碑文谷圓融寺までの古道が現在でも断片的に残っている。今回はその「碑文谷道」を辿り、町人たちがどのような道のりで参拝へ向かったのかを感じることとした。

品川宿から碑文谷へ向かう古道はいくつかあるが、今回はその中から品川宿南馬場より三ツ木を経由して品川用水沿いを進む道をトレースしてみた。道中、JR大崎駅付近は道が寸断されており迂回が必要だったり、詳細なルートが不明な箇所もあるが、できるだけ古い道と思われる道を選んだ。

【歩き旅】碑文谷道 その①


今回のスタート地点は旧東海道と南番場通りの交差点から。この南東にはかつて東海道品川宿の問屋場があり、後に同じ建物に貫目改所が設置された。物価の高騰によって江戸庶民が生活が逼迫したことで起きた慶應2年(1866年)の打ち壊しは、この場所での襲撃を発端に武州・上州への一揆に波及していったという。


品川宿には幕府公用の旅人に向けた馬小屋が設けられ、その一帯を馬場町と呼んだ。これが宿の南北にあったため、それぞれ南馬場・北馬場と呼ばれていた。この名残が残る「南番場通り」を西進すると、京急本線の高架下をくぐる。その高架下に新馬場駅がある。高架ができる前は「北馬場駅」と「南馬場駅」がそれぞれこの北側・南側にあったが、昭和51年(1976年)の高架化により2駅が統合され、中間地点に新馬場駅が誕生した。


南品川四丁目交差点で国道16号を横切る。そこから先はゼームス坂通りとなる。慶應2年(1866年)に来日したJ.M.ゼームスは長崎のグラバー商会で勤務する傍ら、幕末志士と関係を深め、海援隊の関義臣をイギリスへ密入国させる手伝いをするなどしていた(台風により遭難して失敗に終わった)。明治20年代に品川の「浅間坂」という坂の近くに住んでいたが、地元の人が苦労して上り下りしていたのを見かねて、私財を投じて坂を緩やかにした。その出来事に親しみを込め、その坂はいつしか「ゼームス坂」と呼ばれるようになったのだという。

そんなゼームス坂通りは天龍寺前で南進するためここでお別れとなる。天龍寺は天正9年(1581年)に松平忠昌の生母・清涼院によって創建。門を入って左手には大正7年(1918年)に発生した碑文谷踏切事故で列車に撥ねられ死亡した犠牲者と、事故の責任を感じて後追い自殺した2名の踏切番を供養する「碑文谷踏切責任地蔵尊」が置かれている。


天龍寺の外壁の一部には古そうなレンガが使われている。これは戦前まで大井町駅西口付近にあった鐘淵紡績・大井工場で使われていたレンガを、昭和40年(1965年)の工場解体時に移設したもの。明治から昭和初期にかけて国内企業売上高1位を記録していた鐘淵紡績は、合併や事業分割などを繰り返し、2001年(平成13年)に「カネボウ株式会社」に社名変更した。繊維事業等の赤字を賄うために粉飾決算を繰り返すことが常態化し、その結果、平成19年(2007年)に破綻寸前で解散することとなった。


その先には日本ペイント東京事業所。明治14年(1881年)に光明社として創業し、帝国海軍に船体塗料を納入するなど、国産塗料製造のリーディングカンパニーとして君臨していた。東京事業所は明治29年(1896年)に南品川工場として設置された敷地を受け継いでいる。


事業所の入り口に道標が置かれている。享保21年(1736年)建立の道標で、「左ひ文や道」「右めくろ道」と刻まれている。かつてはこの近辺が目黒不動尊と碑文谷圓融寺との分岐点であった。


日本ペイントの敷地内に赤レンガの建物があり、内部が見学できる。この建物は明治42年(1909年)に建てられた日本最古の油・ワニス工場であったもので、現存する品川区内最古の西洋建築物。現在は「明治記念館」として、工場時代に利用されていた機械や日本ペンとの歴史がわかるような展示物を見ることができるようになっている。


「碑文谷ガード(碑文谷架道橋)」でJRの線路をくぐる。天龍寺の地蔵の事件があった碑文谷踏切はかつてこの場所にあったようだ。ここは品川区で目黒区碑文谷へはまだ距離があり、碑文谷道に由来して踏切名や架道橋名が付けられていたとみられる。


道は再び線路に阻まれる。この内側はJR東日本の東京総合車両センターへの引き込み線。この先に行くために、北側に大きく迂回して跨線橋を渡る。


線路の西側に出てくる。ここに妙光寺があるが、ここに隣接するように明治28年(1895年)に「妙華園」と呼ばれる植物園があった。約1万坪の敷地の中に当時珍しかったランやスイレンなどの西洋植物や小動物園を併設したテーマパークのようになっており、一時は向島百花園を凌ぐ名所だったというが、周辺地域の工業化に伴い、大正10年(1921年)に閉園した。


JR横須賀線、東海道新幹線に阻まれるが、今度は北三ツ木ガードをくぐって向こう側へ。ここから先はいくつかルートが考えられるが、古そうな三ツ木集落の中心地を通る道を選択した。


百反通り交差点で国道1号線を横切り、首都高速2号目黒線の下をくぐる。桐ケ谷交差点で都道2号線を横切り、旧中原街道も横断する。旧中原街道は江戸・虎ノ門を起点に東海道平塚宿の中原御殿までを結ぶ脇往還。東海道が海に近いルートを通っているのに対して、中原街道は内陸の高い位置を通っており、水害を避ける等の目的で現行の東海道ルートに代わって付け替えが検討されたこともあったという。

2021/06/20

【雑記】電柱番号から見える少し昔の風景



地名は淘汰される

世の中には「無用になった地名」が存在する。

そもそも地名というのは、その地域・地区・集落などを同定するために使われた名前で、時代の流れや利便性により変更・淘汰が繰り返されるものであり、これは必然である。

かつて「江戸」と呼ばれた地域は、新しい時代の幕開けと共に「東京」と改められた。街道の分岐点に形成されていた「内藤宿」が正式に「内藤新宿」として整備されたが、いつしか短縮して「新宿」という呼称が定着した。

明治時代になるとそれまで存在していた自然村の大規模な統廃合が行われた。明治21年(1888年)に71,314あった村々は、翌年に市制・町村制が施行されるとその数は15,859にまで減少した。このとき合併前の村名は「大字」、村内の細かい集落や耕地を「小字」として住所表記する際などに利用していた。

しかし、戦後の区画整理や都市部を中心とした地番整理・住所表示などが進むと、住所としての字の有用性は失われてしまい、別の地域名に置き換わったり「○丁目」の表示に集約されたりするなどして、日常的に我々が目にする機会は少なくなった。

わずかに残るかつての小字

特に都市部ではかつての小字名を見かける機会は少ないが、いくつか残されている姿を見かけることができる。例えば、民家の表札に住所を併記していることがあるが、古い家だと住所表示前の小字を使って記載していることがある。また町内会名、神社の氏子名など、集落単位での活動が必要とされる場面では、現行の町名ではなくかつての小字をそのまま利用している例も多い。その場合「○○地区」や「○○区(市区町村の区とは異なる)」といった表記で明確に集落名を示している地域もある。

小中学校名や公園名、バスの停留所にも小字名が残る場合がある。東京都品川区南品川にある「浅間台小学校」は大正9年(1920年)に開校し、当時の地名である荏原郡品川町南品川宿字浅間台に由来する。

他にも知られるのが自動販売機の設置場所記載シール。防犯上の取り組みとして、道に迷った人などが現在地を確認したい場合などに、自動販売機を見れば住所がわかるよう、小字名まで詳しく書いている場合がある。

電柱番号をみてみよう


実は電柱番号にもかつての小字が使われているものがあるという話を耳にした。

電柱番号とはざっくり言えば電柱の「住所」である。基本的に町中にある全ての電柱には電柱番号が付与されており、警察や消防などではこの番号を伝えることで位置情報と連動して場所を把握できるようなシステムを導入していたりする。

電力会社によって記載方法が若干変わるようだが、例えば上図の場合は右上にロゴがあるため、電柱の所有者がNTT東日本であると判別できる。NTT東日本の場合、「本村支」は標識名、「2」は電柱番号、「2021」は設置年を表しているという。さらに標識名の「支」は支線を表している(他に「幹」=幹線があることを確認している)。つまり、この電柱は2021年に設置された本村支線の2番目の電柱であるということがわかる。(設置年については、電柱が再設置されたときに更新されることもあるようなので、かつての地名を調べる際には同じ路線の他の電柱も参考にしたほうがよさそうである。)

古い地名を調べる上で着目すべきは、もちろん標識名。上図でいう「本村」に注目する。

この電柱の所在地は東京都練馬区豊玉中3丁目だが、「本村支」の標識名の電柱は南に豊玉南3丁目の中野区境まで延びる。この辺りに「本村」という住居表示は無い。ここから少しずつ時代を遡ってみよう。

昭和22年(1947年)、練馬区が板橋区から独立する。それ以前、本村支線があった地域は「東京都板橋区豊玉中、豊玉南」であった。

昭和18年(1943年)、東京都制施行。以前は「東京市板橋区豊玉中・豊玉南」であった。

昭和15年(1940年)、初めて「豊玉」という地名が生まれる。それ以前は「中新井」であったが、近くに中野区の新井薬師があるなど紛らわしい状態だったため改称されたという。以前は「東京市板橋区中新井町三丁目・四丁目」であった。

昭和7年(1932年)、東京市板橋区が新設され、中新井村が板橋区に編入され中新井町となる。以前は「東京府北豊島郡中新井村大字中新井」であった。このとき、中新井町四丁目となった町域には「大字中新井字本村」があった。

長々と記載したが、つまり旧中新井村の小字であった「本村」が現在でも電柱の標識名に残されているのである。

残されているのは地名だけではない

本村周辺の他の電柱番号にも同様に小字名が残されているのではないかと調べていたのだが、実はあまり良い例が見つからなかった。一方で地名ではない「昔のもの」が残されている例がいくつかあったので紹介したい。

豊玉北6丁目近辺にある「市場」という支線名は、昭和39年(1964年)まで現在のアイカ工業東京支店の場所にあった、東京卸売市場淀橋市場練馬分場を表しているものと考えられる。

豊玉北5丁目近辺にある「産経」という支線名は、現在鍼灸治療院になっている場所にあった産経新聞の販売店から取ったものと考えられる。

この記事の冒頭に写真を載せている「鐘紡」は、練馬駅北側に昭和45年(1970年)まであった鐘淵紡績練馬工場を指しているのだろう。

このように電柱番号には、電柱が電気を供給しているという性質からか、「建物」や「施設」の名前を冠しているものが相当数あることがわかってきた。これらを紐解くことで少し昔の町の様子を窺い知ることができそうである。実は調査の過程で由来が不明な電柱番号が数多く発見されたので、その解明を引き続き行っていきたいと思う。

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その④


南都鏡神社に立ち寄る。鏡神社は佐賀県唐津市に本社を構えており、天平・天平神護年間に福智院に勧請された。現在地には大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守社として移設され、延享3年(1746年)には春日大社の本殿第三殿が譲渡された記録が残っている。明治の神仏分離によって、新薬師寺から独立した形で現在に至っている。


鏡神社の隣には新薬師寺。奈良時代に官立寺院として創建されたものとされるが、天平19年(747年)に聖武天皇の后である光明皇后によって建立されたという記録も残る。
国宝の本堂は奈良時代の現存する遺構として貴重であり、七間のうち中央の三間の柱間を他よりも少し広くとっているのが特徴的である。本堂の内部には同じく国宝に指定されている十二神将像などの仏像が安置されており、内部に仏像を置くことを見越して柱間を設計したことが窺える。


境内にある石仏群。六字名号の隣には地蔵十王石仏。中央の地蔵の周りによく見ると小さい人型がいくつか掘られており、これが十王である。わかりにくいが右手は阿弥陀如来の来迎印のように親指と人差し指を結ぶ形をつくっており、大和郡山市の矢田寺に多くあることから「矢田型地蔵」と呼ばれている。


その隣(写真左端)の半肉彫り如来像は手印の形が中世以降の石仏には見られないスタイルで、奈良時代後期の作造と推定されている。その右隣から永正3年(1506年)の地蔵菩薩、鎌倉後期の阿弥陀如来、大永5年(1525年)の地蔵菩薩と並ぶ。


新薬師寺の東側の道を進むと右手に不空院がある。奈良時代に鑑真和上がこの地に移住したと伝わり、平安時代に空海が興福寺南円堂を作る際、鑑真住居跡に八角円堂を試作したことが創建の由来とされる。その名の通り不空羂索観音を本尊とする寺院で、鎌倉時代作と伝わる本尊は国の重要文化財に指定されている。不空羂索観音は藤原氏の信仰仏とされ容易に作成されなくなったため現存する観音像は少ない。


突き当りを右折するが、この道は旧柳生街道。柳生新陰流や剣豪の町として有名な奈良市柳生町までを結ぶ。この道に沿って進んでいくと左手に地蔵尊がある。江戸時代末期頃、酒屋の武内新六という人物が酒代の徴収のため柳生へと向かった際、水を汲みに川に下ったところに地蔵が横たわっていたものを祀ったものだという。


その先の角地に「空也上人居跡」の碑。空也上人といえば六波羅蜜寺に安置されている口から6体の阿弥陀如来が飛び出す像で有名であるが、ここ隔夜寺がその居跡だという。空也上人は隔夜修行の開祖と言われる。隔夜修行は、隔夜寺(かつては隔夜堂)と初瀬の長谷寺を宿坊とし、この2箇所を1日ごとに念仏を唱えながら参拝する修行を1000日以上行うもので、大正時代まで続いていたという。


隔夜寺の角を左折すると、目の前に常夜灯と森への入り口が現れた。この森こそ、全国に約1,000社ある春日神社の総本社でユネスコ世界遺産にも指定されている、春日大社の境内地である。「上の禰宜道」という高畑町に住む禰宜が使っていたという道を通り、春日大社国宝殿前の表参道に合流する。2日間に渡った「山の辺の道」の行程としては、ここでひとまずゴールとする。もちろん折角なので、春日大社に参拝していく。二之鳥居をくぐる。


閑かな上の禰宜道とはうってかわって、人の多い表参道を進んでいく。当時は「インバウンド」という言葉が持て囃された時期でもあり、参拝客もアジア系外国人の姿が目立つ。しばらく緩やかな上り道を進んでいくと、本殿の周りを取り囲む朱色の回廊が見えてくる。本殿の正面に位置するのが国の重要文化財でもある南門。元々鳥居として使われていたものを、治承3年(1179年)に楼門に改めたものである。


本殿の撮影については禁止されており、一通り参拝・見学して後にした。
回廊の外側、南門の西側にあるこじんまりとした神社は摂社の榎本神社。一見地味な神社だが、延喜式神名帳の「春日神社」がこの神社だといわれている。つまり春日大社が創建される以前から、この地に祀られていたと考えられている。そのため、明治時代までは春日大社の参拝者はまず榎本神社に参拝し、その後春日大社の本殿を参拝するという風習があった。


折角なので鹿も愛でておく。奈良時代に常陸国から神様が白鹿に乗ってやってきたことから、神の使いとして神聖化されている奈良の鹿。現在では奈良公園を中心に1,300匹ほど生活しているという。


折角なので興福寺にも立ち寄る。興福寺の象徴・五重塔は天平2年(730年)に藤原不比等の娘である光明皇后の発願によって建立されたもの。現在の塔は応永33年(1426年)頃に再建されたものとされる。現存する木造塔では東寺の五重塔に次いで日本で2番目の50.1mで、国宝にも指定されている。


五重塔の隣には同じく国宝に指定されている東金堂。神亀3年(726年)に聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を祈願して建立したもので、現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたもの。建物もさることながら、内部に安置されている国宝の十二神将像、四天王像、維摩居士像、文殊菩薩像、国指定重要文化財の薬師如来像、日光菩薩像、月光菩薩像の迫力ある姿も壮観である。


時間も遅くなってきたので、最後に南円堂を見学する。南円堂は弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が父の内麻呂の冥福を祈って建立したもの。本尊は不空院と同じく不空羂索観音で、観音が鹿皮を身にまとっていることから、鹿を神の使いと考える春日社の思想とも結びつき、藤原氏の信仰を集めた。現在の建物は寛保元年(1741年)に立柱、寛政元年(1789年)に再建されたもので、朱色の八角円堂は開けた興福寺境内の中でも不思議と目立つ存在となっている。

これにて2日間に渡る奈良の旅は完結とする。