気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2022/08/10

【歩き旅】北国街道 Day3 その④



屋代信号で国道18号に合流する。「市道升の浦線」の案内に沿って側道に入り、用水路沿いの道を進む。北陸新幹線の線路を頭上に見ながら、長野自動車道更埴ICのトンネルを抜ける。土手に突き当たるがかつてはこの道の延長線上を屋代の渡しで千曲川の対岸に渡っていた。ここからかなり東に迂回していき、篠ノ井橋で迂回して千曲川を渡る。


篠ノ井橋は明治5年(1872年)に12艘の船を並べて作られた舟橋を起源とし、明治22年(1889年)に木橋が架橋された。現在の橋は昭和47年(1972年)に架替えられた橋を平成6年(1994年)に道路拡幅工事に伴い拡張したもの。


千曲川を渡ると遂に長野市へと突入する。


土手を西へと向かい、対岸の渡しの発着場付近へと向かう。


矢代の渡しの対岸に位置するところに軻良根古(からねこ)神社がある。「軻良根古」は田畑を荒らす大鼠を退治する「唐猫」に由来するという。ここに矢代の渡し跡の説明板がある。天保14年(1843年)にはここに渡し船があった記録が残っている。


その先に「明治時代の更級郡制の中心地」の案内板があった。北国街道上のこの場所に郡役所を中心とした更級郡の関連役所が集まっていた。更級(さらしな)という地名は古く、奈良時代の木簡にもその地名が記されていた。しかし、平成17年(2005年)に大岡村が長野市に編入されて更級郡は消滅したため、実は地名としての「更級」は現存していない。


道は丁字路に突き当たる。ここに篠ノ井追分宿跡の碑がある。突き当りを左に向かう道が善光寺西街道(北国西街道)で、稲荷山宿、桑原宿、麻績宿、青柳宿、会田宿、刈谷原宿、岡田宿、松本宿、村井宿、郷原宿を経て中山道・洗馬宿へと向かう。篠ノ井追分宿はあくまで間の宿であったが、北国街道と善光寺西街道の追分ということと、千曲川の舟運の集積地として発展し、無許可で宿泊業を経営する者も多かったという。


北国街道は突き当りを右に進む。岡田川に架かる見六(みろく)橋で再び街道は北方向へと90度進行方向を変えるが、この橋の袂に道標がある。嘉永2年(1849年)の道標で「せんく王うし道」と刻まれているもので、平成の見六橋の架替え工事で川の中から発見されたものだという。


駅前通り手前の一角に「やすらぎ通り」と名のついたスナック街があった。奥の方には年季が入ったお店の看板が立ち並んでいる。


篠ノ井駅の様子を観察する。JR信越本線・篠ノ井線、しなの鉄道しなの鉄道線が乗り入れている駅だが、この日はあまり人出があるような感じではなかった。


驥山館(きざんかん)への側道入り口のところに秋葉神社と天神社がならんで覆殿に祀られていた。向かって左にあるのは蠶(蚕の俗字)碑だろうか。


芝沢交差点手前に万延元年(1860年)建立の庚申塔がある。裏面に「布施高田村」とあるが、このあたりは大正に入って篠ノ井町になるまで布施高田村であった地域である。


左手に蓮香寺の楼門が見える。貞治6年(1367年)に川中島原で創建され、慶長元年(1596年)に現在地に移転してきた。平成10年(1998年)の長野オリンピックでは、ドイツチームのゲストハウスとして利用された。


写真では見えづらいが、日の屋の横・大久保家の門前に「明治天皇原御膳水碑」がある。このあたりはかつての原村にあたり、間の宿として機能していた。


親鸞聖人御舊跡(御旧跡)と刻まれた碑がある。ここを左に曲がれば親鸞に縁のある唯念寺にたどり着く。唯念寺は嘉元三年(1305年)に親鸞の弟子・和田新四郎義包(よしかね)によって創建された。義包は和田義盛(鎌倉幕府の侍所別当)の嫡男・新左衛門尉常盛の四男にあたる人物。


JR川中島駅に到着。少し早めだが疲れてしまったので本日はここで終了。

川中島といえば武田信玄と上杉謙信との戦いである「川中島の戦い」が想起されるが、古戦場は街道から少し離れたところにあるということで、今回は立ち寄るのを断念した。

2022/08/09

【歩き旅】北国街道 Day3 その③



しなの鉄道千曲駅前を通過する。平成21年(2009年)に開業した比較的新しい駅である。


寂蒔(じゃくまく)の集落に入っていく。上町集会所脇に「青麻大神(あおそおおかみ)」の碑と祠があった。青麻大神は中風(脳血管障害の後遺症である半身不随や手足のしびれ・麻痺)除けの神様として知られる。


そのすぐ先に土が盛られていて、その上に二十三夜塔と道祖神の石碑が刺さっている。隣に説明板が設置されていて「寂蒔水除土堤」とある。千曲川が氾濫したときに田畑や家屋を守るために、寂蒔を含む4か村によって元禄6年(1693年)に築かれた土堤の一部だという。氾濫の際には、街道と土堤が交差した部分を土嚢や石で埋め、一続きの堤として水害を防いだという。


寂蒔は間の宿としても機能していたようで、茶屋本陣も設けられていた。旧茶屋本陣である宮坂家には、千曲川対岸の姥捨山などを眺望するために利用していた「眼鏡場」があり、今で言う望遠鏡にあたる「遠眼鏡」も残っているようだ。


永昌寺の参道入り口に道祖神が置かれている。永昌寺は元々別の場所にあったが寛保2年(1742年)の「戌の満水」にて境内が崩壊する被害に見舞われた。その後水害に遭わないように、延享3年(1746年)に現在地である東山山麓に移転した。


屋代駅前交差点のあたりから矢代宿が始まっていた。慶長16年(1611年)の北国街道整備の頃より伝馬業務を開始し、南側から本町、横町、新町と続いていた。

神社手前の本町が宿場で最も賑わった辺りで、ここにある藤屋旅館は旧旅籠「ふぢや作治右衛門」という屋号の看板がかかる。建物は明治以降に再建されたものだという。


街道が突き当たった場所には須須岐水(すすきみず)神社がある。創建は不明だが、正保2年(1645年)に現在地に移転。近隣18郷の総社であり、各郷に灌漑・生活用水を供給していた屋代用水の水神であった。


神社前の枡形を東へ北へと進むと矢代宿の脇本陣・柿崎家がある。天保18年(1842年)の記録には矢代宿には本陣1軒、脇本陣2軒があったという。


柿崎家の隣の道は北国街道矢代宿の案内と、この場所が北国街道と松代街道の分岐点であることが記されている。松代街道は北国脇往還・北国東往還・松代道などと呼ばれ、矢代宿から松代宿、川田宿、福島宿、長沼宿、神代宿を経て牟礼宿の平出追分で再び北国街道に合流する。矢代の渡しや丹波島の渡しは増水時に川止めとなるが、松代街道の布野の渡しは川止めにならなかったことから迂回路としても使われ、「雨降り街道」の異名を持った。


脇本陣に対して松代街道を挟んで反対側には本陣があったようで、開けたところに「明治天皇御小休所趾碑」があった。こちらも柿崎家(柿崎源左衛門)が勤めており、跡地には祠や石灯籠なども置かれていた。

2022/08/08

【歩き旅】北国街道 Day3 その②



岩崎街道踏切から旧道に入ると、三叉路に差し掛かる。ここに道祖神、庚申塔が鎮座している。庚申塔は上部に日月、下部に鶏らしき彫り物が辛うじて見える。


ここから上戸倉宿の町並みが延びる。元々は戸倉宿として成立していたが、元和8年(1622年)に上戸倉、下戸倉に分村した。


街道は突き当りの枡形で左折し、道なりに進むと水路を越える。ここには安永2年(1773年)の道祖神、慶応3年(1867年)の二十三夜塔が並ぶ。このあたりまでが上戸倉宿だったようだ。


磯辺踏切を渡って再び国道へ。その先の磯部信号機の傍らに句碑のようなものが。調べてみたが内容は不明だった。


磯部信号の先の道が広くなっていて旧道の痕跡であることが伺い知れる。道が二股に分かれるところに大正時代の聖徳太子碑がある。この辺りの旧道はイマイチ不明瞭だが、すぐに国道に復帰する。


戸倉交差点の辺りから下戸倉宿が始まっていたようだ。戸倉駅入口交差点手前の茅葺き屋根は、坂井銘醸(酒井家)のもの。創業は慶長元年(1596年)で、柳沢本陣が「上の酒屋」と呼ばれていたのに対し、「下の酒屋」の通称で知られていた。


明和元年(1764年)建立の道標には「左 お者すて やハ多 道」とある。ここを左に向かう道は式内社でもある八幡神社(武水別神社)や姨捨山へと続く道であるという。


今井交差点に天狗の絵が印象的な「戸倉宿キティパーク」の案内板があった。平成6年(1994年)に開設された公園で、園内の千曲天狗の像は全長9.5mで日本一のサイズだという。千曲川の洪水の際に、山伏が戸倉自在山に移り住み、村人の幸福を祈願したことに感銘を受けた村人が、後に山伏を天狗として祀ったという天狗伝説が残る。


今井交差点の先で右手に旧道に入り、しなの鉄道の線路沿いを進む。用水路脇の区画に百万遍供養塔が置かれていた。


火の見櫓の袂に明治14年(1881年)建立の「信濃宮御古墳迄二町」の道標が置かれている。ここを東に進めば、柏王神社がある。この神社は後醍醐天皇の皇子・宗良(むねよし・むねなが)親王(信濃宮)を祀っており、境内には宗良親王がこの地で病に罹った際に平癒祈願として髻(もとどり)を埋めた「髻塚」や供養塔がある。


少し先には南無阿弥陀佛名号碑、二十三夜塔、石祠、道祖神が並ぶ。この辺りから集落名が「一里塚」となるが、特に一里塚があるような場所も痕跡も現存しないようである。

2022/08/07

【歩き旅】北国街道 Day3 その①


 北国街道3日目はしなの鉄道坂城駅よりスタート。


駅前を南北に通る坂城宿の立町と大門町。宿場の収益を安定させるため、万治3年(1660年)には大門町・新町の旅籠に飯売奉公人、すなわち飯盛女が設置された。北国街道の宿場の中でも早い時期から飯盛旅籠を設置していて、宝永年間(1704〜1710年)に坂木村が幕府領になると、その範囲は立町・横町まで拡大している。


村上義清の幟がはためくのは、旧坂城宿本陣である旧宮原家。寛政11年(1799年)に火災に遭ったが、天保4年(1833年)に再建された。現在残る表門は江戸中期の建築、主屋は昭和初期の建築となっており、見学することも可能である。


旧宮原家の近くには代々名主を務めた坂田家の住宅がある。明治45年(1911年)の火災後に再建された木造2階建ての建物で、外壁は2階部分は土壁、1階玄関周りは海鼠壁で仕上げられている。旧家が多く残る坂城の町並みの中でも往時の雰囲気を残した目を惹く建物である。


日名沢川を渡り大門町、その先左手に折れると新町となる。防衛上の目的で街道はさらに左に折れ、すぐに右に折れる。ここに嘉永6年(1853年)建立の善光寺常夜灯が置かれており、坂城宿の北口であったことを物語る。


しばらくすると右手に「産業道路1号線」のゲートが現れる。産業道路を謳う割には狭い道だが、北国街道の東側を鼠宿のあたりまで迂回する道のようだ。ここに2基の道祖神がある。


道を挟んで反対側には聖徳太子碑がある。なぜここにいくつも石碑が置かれているかの理由と考えられるものが隣の説明板に書かれていた。ここから先の旧北国街道は「横吹八丁」と呼ばれる山腹の断崖を進む道で、北国街道随一の難所として知られていた。その坂城側の口がこの辺りにあったが、明治10年(1877年)に千曲川沿いに現在の国道18号が開通し、横吹八丁は廃道と化した。


横吹八丁があったと見られる場所を見上げてみる。現在ではがけ崩れなどの影響で一部の遺構が残っているのみとなっていて、全通は困難とのこと。


横吹八丁を進むことは諦め、国道へと迂回して西へ向かう。千曲川対岸の岩井堂山(自在山)のきれいな三角錐を臨む。


国道の左手に苅屋原ミニパークという駐車場兼休憩所がある。ここに横吹の説明板があった。


その隣には「笄(こうがい)の渡し」の説明板があった。伝承によれば、天文22年(1553年)の葛尾城陥落の際、村上義清の奥方一行は千曲川対岸の荒砥城へ逃げるため、船と船頭を探していた。ある船頭がこの任を引き受け、無事対岸に着くことができた。このお礼に髪に挿していた装飾品である笄を与えたことから、笄の渡しと呼ばれるようになったという。


ミニパーク内には道祖神や馬頭観音碑が並ぶ。元々横吹八丁にあった芭蕉句碑などもこちらに移設されている。


こちらは「姨捨山冠着宮遙拝所碑」。古今和歌集で月の名所として歌われた姥捨山が冠着山であることを周知すべく、更級郡更級村初代村長の塚田小右衛門雅丈によって、3つの遥拝所が設置された。麻績村、稲荷山町(千曲市)と並んで坂城村に設置されたのがこの地で、姥捨山に関する句や歌が碑文に刻まれているというが、摩耗が激しい。


横吹を抜けた先で、千曲市に突入する。


ここに「苅屋原の七不思議(伝説) 舟つなぎ石」という碑がある。笄の渡しがあった時代に、渡船を繋ぎ止めておく石が川岸にあったという。大水のときもこの石に船を繋いでおけば流される心配はなかったという。現在では存在しないと書かれているが「この先約10M」というのはどういうことだろうか。


すぐ脇に国道舗装記念碑があり、ここからしなの鉄道の線路を横切って旧道へ入っていく。