【埼玉】たった14年間の命だった「武州鉄道」の路線計画変遷を追う
埼玉県に開業からたった14年で廃業した私鉄があった。
その名を「武州鉄道」と言い、当初は東京都内から日光を目指す路線として計画されていたとされる路線である。しかし、実際には資金難などにより部分的な開業や計画変更を繰り返し、最終的には短期間での廃業を余儀なくされてしまった。
今回はそんな武州鉄道の路線計画の移り変わりや実際に開業した区間を時系列でまとめつつ、埼玉近郊の往時の鉄道事情を考察してみようと思う。あくまで「路線計画の変遷」にフォーカスを当てるため、それ以外の情報については下記参考資料などで補完いただきたい。
なお、東京都三鷹市から埼玉県秩父市を結ぶ計画があった同名の「武州鉄道」という未成線があるが、こちらは今回取り上げる「武州鉄道」とは関連が無いため注意されたい。
武州鉄道誕生前夜の埼玉鉄道事情
明治16年(1883年)日本鉄道第一区 上野〜熊谷間開業
明治18年(1885年)日本鉄道 桶川、吹上、大宮駅新設
明治18年(1885年)日本鉄道 大宮〜宇都宮間開業、蓮田、久喜、栗橋駅新設
明治23年(1890年)日本鉄道 宇都宮〜日光間開業
明治26年(1893年)日本鉄道 蕨駅新設
明治26年(1893年)千住馬車鉄道 千住茶釜橋〜越ヶ谷町 開業
明治29年(1896年)千住馬車鉄道 廃業
明治31年(1898年)草加馬車鉄道 草加町〜大沢間開業
明治32年(1899年)東武鉄道 北千住〜久喜間(後の伊勢崎線)開業
明治33年(1900年)草加馬車鉄道 廃業
明治34年(1901年)忍馬車鉄道 吹上〜行田間開業
明治35年(1902年)東武鉄道 久喜〜加須間開業
明治36年(1903年)東武鉄道 加須〜川俣間開業
明治38年(1905年)行田馬車鉄道設立 忍馬車鉄道の業務を引き継ぐ
明治39年(1906年)日本鉄道国有化 官設鉄道となる
明治42年(1909年)秋葉原〜上野〜青森間を東北本線、大宮〜高崎間を高崎線に名称変更
埼玉県の鉄道の歴史は明治16年(1883年)の日本鉄道第一区の開業にはじまる。日本鉄道は日本初の民間の鉄道会社で、東京から青森に至る長大路線の計画を発端に、埼玉にも鉄道が敷かれることとなった。
その16年後、明治32年(1899年)には東武鉄道が開業した。東武鉄道は既に都心から日光まで繋がっている日本鉄道に対抗する形で、観光需要の高まっていた日光にアプローチしようという計画で路線を伸ばしていった。これにより、それまで千住馬車鉄道や草加馬車鉄道が運行していた路線とほぼ並行するような路線が敷かれ、結果的に沿線の交通転換が行われることとなった。
明治34年(1901年)には忍馬車鉄道が吹上〜行田間で開業した。行田で生産が盛んだった足袋を吹上駅経由で輸送するために、局所的な輸送手段として設立されたもので、その後行田馬車鉄道に業務が移管された。
中央軽便電気鉄道の壮大な計画
明治43年(1910年)国有鉄道 川口町駅 新設
明治43年(1910年)中央軽便電気鉄道 川口〜宮ヶ谷塔間 鉄道免許状下付
中央軽便電気鉄道は綾瀬村(現:蓮田市)、岩槻町(現:さいたま市岩槻区)の有志らを中心として設立され、当初は東武鉄道と同様に日光を目指すことを目論んでいたようである。
安行村(現:川口市安行)
大門村(現:さいたま市緑区大門)を経て
春岡村大字宮ヶ谷塔(現:さいたま市見沼区宮ヶ谷塔)に至る
命からがら開通した武州鉄道
武州鉄道包囲網、そして廃線へ
廃線後にも息づく武州鉄道
いつの間にか開業し、そしていつの間にか廃業した武州鉄道であるが、廃業後に一部の廃線跡は車道に転用されることとなった。
笹久保駅と武州野田駅の間にある柳瀬川橋梁あたりから神根駅までの廃線跡は埼玉県に買収され、その後国に買収されると昭和38年(1963年)に国道としての整備が開始される。そして、昭和45年(1970年)に国道122号の岩槻鳩ヶ谷バイパスとして開通した。その10年後、昭和55年(1980年)にはバイパスに沿って東北自動車道が開通し、国内最長の高速道路の一端を担うこととなった。
鉄道時代には日光を目指し邁進して頓挫した武州鉄道だが、廃線後は日光どころか青森まで繋がる道路の一部になっているというのは、なかなか感慨深い。
また、平成13年(2001年)には埼玉高速鉄道線埼玉スタジアム線が開通し、赤羽岩淵から鳩ヶ谷を経由して浦和美園駅に至るという、武州鉄道が整備しようとしていたルートに近い路線を実現した。
その後、北上して岩槻・蓮田に伸びる路線が計画されており、令和3年(2021年)には埼玉県とさいたま市が連携して岩槻延伸に取り組むことが発表されている。
かつての轟音はどのような音を沿線に響かせるのであろうか。




















