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2022/09/01

【埼玉】たった14年間の命だった「武州鉄道」の路線計画変遷を追う


埼玉県に開業からたった14年で廃業した私鉄があった。

その名を「武州鉄道」と言い、当初は東京都内から日光を目指す路線として計画されていたとされる路線である。しかし、実際には資金難などにより部分的な開業や計画変更を繰り返し、最終的には短期間での廃業を余儀なくされてしまった。

今回はそんな武州鉄道の路線計画の移り変わりや実際に開業した区間を時系列でまとめつつ、埼玉近郊の往時の鉄道事情を考察してみようと思う。あくまで「路線計画の変遷」にフォーカスを当てるため、それ以外の情報については下記参考資料などで補完いただきたい。

なお、東京都三鷹市から埼玉県秩父市を結ぶ計画があった同名の「武州鉄道」という未成線があるが、こちらは今回取り上げる「武州鉄道」とは関連が無いため注意されたい。

武州鉄道誕生前夜の埼玉鉄道事情

明治16年(1883年)日本鉄道第一区 上野〜熊谷間開業
明治18年(1885年)日本鉄道 桶川、吹上、大宮駅新設
明治18年(1885年)日本鉄道 大宮〜宇都宮間開業、蓮田、久喜、栗橋駅新設
明治23年(1890年)日本鉄道 宇都宮〜日光間開業
明治26年(1893年)日本鉄道 蕨駅新設
明治26年(1893年)千住馬車鉄道 千住茶釜橋〜越ヶ谷町 開業
明治29年(1896年)千住馬車鉄道 廃業
明治31年(1898年)草加馬車鉄道 草加町〜大沢間開業

明治32年(1899年)東武鉄道 北千住〜久喜間(後の伊勢崎線)開業
明治33年(1900年)草加馬車鉄道 廃業
明治34年(1901年)忍馬車鉄道 吹上〜行田間開業
明治35年(1902年)東武鉄道 久喜〜加須間開業
明治36年(1903年)東武鉄道 加須〜川俣間開業

明治38年(1905年)行田馬車鉄道設立 忍馬車鉄道の業務を引き継ぐ
明治39年(1906年)日本鉄道国有化 官設鉄道となる
明治42年(1909年)秋葉原〜上野〜青森間を東北本線、大宮〜高崎間を高崎線に名称変更

埼玉県の鉄道の歴史は明治16年(1883年)の日本鉄道第一区の開業にはじまる。日本鉄道は日本初の民間の鉄道会社で、東京から青森に至る長大路線の計画を発端に、埼玉にも鉄道が敷かれることとなった。

その16年後、明治32年(1899年)には東武鉄道が開業した。東武鉄道は既に都心から日光まで繋がっている日本鉄道に対抗する形で、観光需要の高まっていた日光にアプローチしようという計画で路線を伸ばしていった。これにより、それまで千住馬車鉄道や草加馬車鉄道が運行していた路線とほぼ並行するような路線が敷かれ、結果的に沿線の交通転換が行われることとなった。

明治34年(1901年)には忍馬車鉄道が吹上〜行田間で開業した。行田で生産が盛んだった足袋を吹上駅経由で輸送するために、局所的な輸送手段として設立されたもので、その後行田馬車鉄道に業務が移管された。

中央軽便電気鉄道の壮大な計画

明治43年(1910年)国有鉄道 川口町駅 新設
明治43年(1910年)中央軽便電気鉄道 川口〜宮ヶ谷塔間 鉄道免許状下付

中央軽便電気鉄道は綾瀬村(現:蓮田市)、岩槻町(現:さいたま市岩槻区)の有志らを中心として設立され、当初は東武鉄道と同様に日光を目指すことを目論んでいたようである。

計画ルートは下記のとおり。
埼玉縣北足立郡川口町(現:川口市本町付近)より
同郡鳩ヶ谷町(現:川口市鳩ヶ谷本町付近)
安行村(現:川口市安行)
大門村(現:さいたま市緑区大門)を経て
春岡村大字宮ヶ谷塔(現:さいたま市見沼区宮ヶ谷塔)に至る


明治44年(1911年)北武鉄道 北埼玉郡羽生町(現:羽生市中央付近)〜大里郡熊谷町(現:熊谷市)間 軽便鉄道免許状下付
明治44年(1911年)中央鉄道に社名変更 動力を電気から蒸気に変更
大正元年(1912年)中央鉄道 起点終点経過地一部変更

「中央軽便電気鉄道」という壮大な名称は資金調達のためだけだったのかは不明だが、電気から蒸気に変えることで資本金を削減することとなった。それに伴う起点終点の変更理由は、
・電気鉄道から蒸気鉄道に変更した結果、官線川口町停車場付近を通過したほうが便利と考えたため
・宮ヶ谷塔付近は湿地で鉄道敷設に不便であり、工事上と地元の希望により岩槻町に変更するほうが良いと考えたため
とのことである。変更された経過地は下記ルートとなる。

埼玉縣北足立郡川口町(現:川口市本町付近)両端荒川堤防際の起点とし
同町官線停車場(現:川口駅)を経て
同郡鳩ヶ谷町(現:川口市鳩ヶ谷本町付近)
安行村(現:川口市安行)
戸塚村(現:川口市戸塚)
大門村(現:さいたま市緑区大門)
野田村(現:さいたま市緑区中野田)
及同縣南埼玉郡和土村(現:さいたま市岩槻区真福寺・浮谷など)
柏崎村(現:さいたま市岩槻区柏崎)を経て
岩槻町(現:さいたま市岩槻区本町付近)に至る


大正2年(1913年)中央鉄道 岩槻町〜忍町間 鉄道免許状下付

岩槻以北について、忍町(行田)までの鉄道敷設が認可された。ルートは下記の通り。

埼玉県南埼玉郡岩槻町より
河合村(現:さいたま市岩槻区)
綾瀬村(現:蓮田市)
平野村(現:蓮田市)
大山村(現:白岡市)
三箇村(現:久喜市)
菖蒲町(現:久喜市)
及北埼玉郡鴻茎村(現:加須市)
水深村(現:加須市)
高柳村(現:加須市)
加須町(現:加須市)
禮羽村(現:加須市)
志多見村(現:加須市)
太田村(現:行田市)
長野村(現:行田市)
を経て忍町(現:行田市)に至る

国鉄の蓮田駅、東武鉄道伊勢崎線の加須駅での接続を視野に入れた計画だったようである。


大正4年(1915年)大門〜川口間経路変更申請

起点を川口から蕨町に変更した。理由として述べられているのは以下の通り。
・沿道の苗木業の発展と、川口町付近の工業発展により地価が暴騰し、用地の買収が不可能になってしまった。
・用地費と乗客貨物を集約する利益を検討したところ、起点を隣接地である蕨町に変更することが望ましいと判断した。
資金も十分に確保できておらず、高騰する用地の確保に苦慮していることが伺える。

命からがら開通した武州鉄道

大正7年(1918年)北武鉄道 軽便鉄道免許失効(北埼玉郡羽生町〜大里郡熊谷町間)
大正8年(1919年)北武鉄道 鉄道免許状下付(北埼玉郡羽生町〜大里郡熊谷町間)
大正8年(1919年)中央鉄道 武州鉄道に社名変更
大正10年(1921年)北武鉄道 羽生〜行田駅間開業
大正11年(1922年)北武鉄道 熊谷〜行田駅間開業、秩父鉄道と北武鉄道が合併して秩父鉄道となる
大正12年(1923年)東武鉄道日光線 鉄道敷設免許状下付(南埼玉郡百間村〜栃木県下都賀郡家中村)
大正13年(1924年)武州鉄道 蓮田〜岩槻駅間開業

「中央」鉄道という壮大で抽象的な名前は、より小さく具体的な「武州」鉄道に改められた。その上で、少しでも早く工事・運営費用を捻出するため、計画路線のほんの一部である蓮田〜岩槻間を開業することとなった。

岩槻駅は現在の東武アーバンパークライン岩槻駅の場所よりも東側、岩槻町の東端・現在のさいたま市立岩槻中や太田小がある位置に設けられた。

そうこうしているうちに、北武鉄道が秩父鉄道に合併し、東武鉄道伊勢崎線の羽生駅と国鉄の熊谷駅間が繋がった。忍町の北側に行田駅(現:行田市駅)が設けられ、これにより武州鉄道が忍町まで延伸するメリットががくっと下がってしまった。


大正14年(1925年)武州鉄道 岩槻北口駅を新設

岩槻町の北端(現在の岩槻区宮町一丁目・日の出町六丁目境界の五叉路付近)に岩槻北口駅が設けられた。岩槻町の北側と南側に駅を設けて利便性の向上を目指したものと考えられる。


大正15年(1926年)武州鉄道 河合駅新設
大正15年(1926年)北総鉄道 鉄道免許状下付(野田町〜大宮町)

蓮田〜岩槻北口間に河合駅が新設された。元々中間駅をもう少し岩槻寄りの箕輪に設ける予定だったが、用地買収に手間取り工事竣工を何度も延期していた。その代替策として河合駅が設置される運びとなった。


昭和3年(1928年)武州鉄道 鉄道免許状下付(鳩ヶ谷町〜岩淵町)
昭和3年(1928年)武州鉄道 岩槻本通駅新設
昭和3年(1928年)武州鉄道 岩槻〜武州大門駅間 延伸開業
 浮谷駅、笹久保駅、武州野田駅、武州大門駅新設

鳩ヶ谷以南についても赤羽駅までの鉄道敷設が許可された。ルートは下記の通り。

埼玉県北足立郡鳩ヶ谷町(現:川口市)
同 同 南平柳村(現:川口市の南平地域)
同 北豊島郡岩淵町(省線赤羽停車場)(現:東京都北区赤羽付近)

赤羽駅への接続は、国鉄貨物線の廃線を利用してコストカットを図る想定だったという。

同年、岩槻駅と岩槻北口駅の中間に岩槻本通駅が新設された(現在の県道2号と6号の交点・渋江交差点あたり)。これにより岩槻町の北・中央・南に駅が設置され、利便性が高まった。

さらに岩槻以南、日光御成道の宿場町であった大門宿の付近まで延伸開業した。依然として資金繰りに難航しており、少しずつでも延伸開業をしていかざるを得ない状況となっていた。


武州鉄道包囲網、そして廃線へ

昭和4年(1929年)東武鉄道日光線 杉戸〜新鹿沼間開業 同年に新鹿沼〜下今市間、下今市〜東武日光間開業
昭和4年(1929年)北総鉄道 粕壁〜大宮間開業
昭和4年(1929年)北総鉄道 総武鉄道に社名変更
昭和5年(1930年)武州鉄道 真福寺駅新設

東武鉄道の勢いは凄まじく、杉戸から東武日光駅までの東武鉄道日光線を一年間で全通させた。全区間が複線電化、浅草駅からの直通運転などの強みを持ち、国鉄よりも優位に日光への観光客輸送を実現したのである。※国鉄は昭和34年(1959年)に日光線全線を電化している。武州鉄道の当初の目標であった「日光延伸」を目指す理由が(既に諦めていたとは思うが)決定的に失われてしまった。

また同年には北総鉄道が粕壁〜大宮駅間を開業させ、東武伊勢崎線と国鉄を短絡させる路線を完成させた。このとき開業した岩槻町駅は岩槻町の北西に位置し、武州鉄道の駅とは全くの別物という位置づけであった。ただ都心への乗り入れの利便線などで岩槻町民の鉄道利用が総武鉄道に多く流れ込み、これまで岩槻町を中心に路線を伸ばしてきた武州鉄道にとっては致命的な状況となった。

武州鉄道は利便線の向上を図るため、岩槻駅と浮谷駅の間に真福寺駅を設けている。


昭和6年(1931年)武州鉄道 馬込駅新設

蓮田駅と河合駅の間に乗客輸送目的の駅として、集落規模もそれなりにあった馬込に新駅を設けた。


昭和10年(1935年)武州鉄道 鉄道免許取消(蓮田〜行田間)
昭和10年(1935年)武州鉄道 鉄道免許取消(鳩ヶ谷〜赤羽間)

蓮田〜行田間は建設用地取得が進まず、免許下付から20年以上手付かずの状態であった。それまで工事竣工の延長を何度も繰り返して免許を維持していたのだが、流石に実現性が低いと鉄道省に判断され、直近の延期申請が却下され、期限までに工事竣工できずに該当区間の免許が失効となった。

鳩ヶ谷〜赤羽間については、武州大門〜蕨間と合わせて鳩ヶ谷〜川口間の1つの路線にまとめることを画策していた(昭和8年(1933年)に変更申請提出)。鳩ヶ谷〜赤羽間は荒川橋梁の架橋と赤羽駅周辺の用地確保に膨大な費用がかかること、武州大門〜蕨間は自動車の進出と省線の電化によりこの区間に鉄道を敷く必要がなくなったことを理由として挙げている。これにより、鳩ヶ谷〜赤羽間の延期申請が却下されたことで、期限までに工事竣工ができずに免許失効となった。


昭和11年(1936年)武州鉄道 武州大門〜神根駅間 延伸開業
 下大門駅、行衛駅、神根駅新設

鳩ヶ谷町の手前、神根村石神(現在の川口市石神)まで延伸できた。以南の路線延長については資金が足りずに工事竣工の延期を繰り返す事態に陥っていた。


昭和13年(1938年)武州鉄道 全線廃止

経営状況は全く振るわず、鉄道としての存在意義も怪しい実情。武州鉄道の債権者である武州銀行が無警告で鉄道省に強制執行を申請する事態となった。猶予を願い出たが聞き入れる様子もないため、もはやこれまで。自主的に会社の解散を断行したのである。

廃線後にも息づく武州鉄道

いつの間にか開業し、そしていつの間にか廃業した武州鉄道であるが、廃業後に一部の廃線跡は車道に転用されることとなった。

笹久保駅と武州野田駅の間にある柳瀬川橋梁あたりから神根駅までの廃線跡は埼玉県に買収され、その後国に買収されると昭和38年(1963年)に国道としての整備が開始される。そして、昭和45年(1970年)に国道122号の岩槻鳩ヶ谷バイパスとして開通した。その10年後、昭和55年(1980年)にはバイパスに沿って東北自動車道が開通し、国内最長の高速道路の一端を担うこととなった。

鉄道時代には日光を目指し邁進して頓挫した武州鉄道だが、廃線後は日光どころか青森まで繋がる道路の一部になっているというのは、なかなか感慨深い。

また、平成13年(2001年)には埼玉高速鉄道線埼玉スタジアム線が開通し、赤羽岩淵から鳩ヶ谷を経由して浦和美園駅に至るという、武州鉄道が整備しようとしていたルートに近い路線を実現した。

その後、北上して岩槻・蓮田に伸びる路線が計画されており、令和3年(2021年)には埼玉県とさいたま市が連携して岩槻延伸に取り組むことが発表されている。

かつての轟音はどのような音を沿線に響かせるのであろうか。

参考文献

2020/01/04

羽沢横浜国大駅を都市計画の視点で眺める


令和元年(2019年)11月30日、相模鉄道が念願の都心乗り入れを果たした。大正6年(1917年)に開業して以来、実に100年を超えた悲願の達成である。この偉業を達成するのに必要不可欠だったのが、乗り入れに合わせて開業した「羽沢横浜国大駅」の存在である。

しかし、当駅のことを調べてみると、駅周辺のアクセスが非常に悪いという話が耳に入ってきた。
先日相鉄線のJR直通運転を特集したテレビ番組「タモリ倶楽部」内でも、空耳アワーの解説員・安西肇氏が、開業前の当駅に公共交通機関でたどり着くことが困難として、コーナーが中止となる自体が発生している。

参考
相鉄・JR直通で誕生する「羽沢横浜国大駅」の利便性が恐ろしく悪いワケ

上記記事では、相互直通運転を行うにあたり、本線から分岐した連絡線を経由して他路線に乗り換えるという特殊な事情がこの不便な駅を生んだとしているが、本ブログでは羽沢町の街づくりの観点からこの状況がなぜ生まれたのかを考察してみようと思う。

横浜市編入までの羽沢地域の様子

羽沢横浜国大駅は、名前の通り「羽沢」という場所に位置している。正確な駅の所在地は、「神奈川県横浜市神奈川区羽沢南二丁目471」である。
羽沢と呼ばれる字は「羽沢町」と「羽沢南」が存在してるので、しばらくはこれを総じて羽沢地域と呼ぶことにする。

この地域には明治時代まで羽沢村が存在し、明治初年度の領地をまとめた旧高旧領取調帳によれば、羽沢村は旗本領(酒依清之丞知行)であった。

明治22年(1889年)、羽沢村は明治の大合併により、小机村、鳥山村、岸根村、下菅田村、三枚橋村、片倉村、神大寺村、六角橋村と共に合併し、橘樹郡小机村となる。ここで羽沢村は消滅するが、字名として存続することになる。

ちなみに明治35年(1902年)には、小机村以外の村から不満が出たため、村名を城郷村に改めている。城郷は小机城に由来した名称である。


明治39年(1906年)の古地図(1/20000 「小机」明治39年測図41年製版
今昔マップ on the webより)を見てみると、羽沢と呼ばれる集落は現在の羽沢幼稚園入口バス停〜釈迦堂前バス停辺りに広がっていたことがわかる。また集落は鶴見川支流の鳥山川北側の道路沿いに発展している。南に位置する羽沢天屋のあたりは谷戸が入り組む地形となっており、谷の底は水田、斜面は森林と果樹園の土地利用となっていたようだ。

横浜市における羽沢は「緩衝材」であった

昭和2年(1927年)、横浜市に編入され城郷村は消滅。同年10月に区政施行により神奈川区の一部となる。
羽沢地域は横浜中心部からの直線距離は近いものの、丘陵部に位置する地域だったこともあり、活発な都市開発は行われず、これまでの農業による土地利用が中心であった。

昭和8年(1933年)に、神中鉄道(後の相模鉄道)が横浜駅に乗り入れし、厚木〜横浜間で開通する。このとき丘陵部であった羽沢地域はぐるりと迂回される形となり、羽沢町の中心地に向かうには保土ヶ谷区の西谷駅から高低差40m程の丘陵地帯を超える約3kmの行程を余儀なくされていた。

戦後の1960年代に入ると、高度成長や人口の首都圏集中の余波が羽沢地域にも及ぶこととなる。
昭和39年(1964年)には東海道新幹線が開業、昭和40年(1965年)には第三京浜道路が延伸する。これらは羽沢地域を「通過点」として利用するものであり、羽沢地域自体を大きく開発しようというものではなかった。

昭和41年(1966年)、鶴見〜戸塚間の東海道貨物線支線の建設計画を国鉄が発表する。この計画に対しては沿線の住民運動が過熱し、公共の建設計画に対する住民の反対運動を「住民運動」と呼んだ日本初の事例となるほどであった。この計画で、貨物駅である横浜羽沢駅が整備されることとなり、羽沢地域において初めて大規模な開発が行われることとなった。

そんな最中、昭和43年(1968年)に「新」都市計画法が制定される。「新」と付けているのは、同名の法律がこの年に廃止となったためである。
この法律は、高度成長に伴った無法な都市開発を抑制し、秩序を保った都市計画に則ってまちづくりを進めていこうという目的で制定されたものである。そしてこの法律において特に重要なのが、「市街化区域」と「市街化調整区域」の区分である。
市街化区域は、"すでに市街地を形成している区域及びおおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域"と定義されている。一方、市街化調整区域は"市街化を抑制すべき区域"と定義され、市街化区域と対をなすような関係になっている。特に市街化調整区域については建築上の制限が厳しく、住宅などの建物の造成も自由にはできない地域となっている。

昭和45年(1970年)、横浜市がどの地域を市街化地域・市街化調整地域に定めるかの「線引き」を実施した。この結果、羽沢地域については古くからの集落があった地域(上記地図の羽沢・綿打などの集落があるエリア)、羽沢町の東端、現在の羽沢南エリアを除いてほぼ全域が市街化調整地域、つまり直近での積極的な開発を行わないエリアに指定された。

参考
横浜市の都市計画史(PDF)
4.急激な都市成長への対応(1951~1988)
に、当初線引きでどの地域が市街化地域・市街化調整地域のマップがある。

この線引きでは、横浜市域の75%を市街化区域、25%を市街化調整区域に定めている。この時の他の都市部の市街化調整区域の割合は、東京都5%、川崎市12%、名古屋7%であったので、横浜市が都市開発についてかなり慎重に進めようとしていたことが窺える。

さらに昭和47年(1972年)、菅田・羽沢農業専用地区が整備される。この農業専用地区の制度は横浜市独自のもので、"都市農業の確立と都市環境を守ることを目的とした"地域に設定される。この制度も無秩序な都市開発を抑制する目的がある。
現在ではキャベツの市内有数の産地でもあるこの農業専用地区は、先述した東海道貨物線の横浜羽沢駅建設に伴って発生した大量の土砂を埋め立てて整地した、いわば「開発の後処理」に利用された土地でもある。

ここまでみても、羽沢地域は横浜市という巨大な都市において、急激な開発を積極的に行わず、農地などの緑を確保するための位置付けが強い場所であることが窺える。

羽沢横浜国大駅の設置とこれから

昭和54年(1979年)、国鉄東海道貨物線の駅として横浜羽沢駅が羽沢町字天屋に開業した。貨物線の駅ということもあり、駅周辺の開発はほとんど行われることはなかった。

動きがあったのは平成12年(2000年)、運輸政策審議会答申で、神奈川東部方面線(相鉄新横浜線・東急新横浜線)の整備についての答申があった。この答申で、神奈川東部方面線を二俣川〜新横浜〜大倉山の区間で平成27年(2015年)までに開業することが適当と判断されたのである。
この計画は起点を西谷、終点を日吉に変更して実施されることとなり、現在のJR相鉄直通線と相鉄東急直通線となった。

平成18年(2006年)には、住宅表示施行により、羽沢町から羽沢南一丁目〜四丁目が分離・新設された。この地域は元羽沢町域の中でも市街化区域に指定されていたエリアで、新駅・羽沢横浜国大駅が設置されるのもこの場所である。

平成20年(2008年)、神奈川東部方面線の開業に伴い、新駅「羽沢駅(仮称)」が設置されることが公表されると、駅周辺地域の住民が中心となってまちづくりを協議する「羽沢駅周辺地区まちづくり協議会」が発足する。

横浜市は、線引きの見直しを数年単位で行っており、
昭和52年(1977年):第1回全市見直し
昭和59年(1984年):第2回全市見直し
平成4年(1992年):第3回全市見直し
平成9年(1997年):第4回全市見直し
平成15年(2003年):第5回全市見直し
と実施してきていた。

平成22年(2010年)の第6回全市見直しでは、2号再開発促進地区の一つとして「羽沢駅周辺地区」が指定されている。この地区の再開発、整備の主たる目標は、"神奈川東部方面線の新駅整備に伴い、新たな交通ターミナルとしての拠点整備や都市機能の集積を図る。 "としている。
駅を設置するだけでなく、その周辺に必要な施設の拡充や、都市機能としてどのような役割を持たせるのかを協議し、必要に応じて開発を行おうという意思の表れである。

平成28年(2016年)には、横浜市は「神奈川羽沢南二丁目地区地区計画」を都市計画決定している。横浜国大へのアクセス等を鑑みて、コミュニティプロムナードの設置を検討しており、駅前の具体的な活用方法と開発内容が明示されたものとなっている。

そして、令和元年(2019年)、羽沢横浜国大駅が開業した。
現在は駅周辺にこれといった施設が整備されておらず、新駅の物珍しさで集まってくる観光客の利用が大半となっている。
令和4年(2022年)には、羽沢横浜国大より先の日吉まで、東急直通線が開業する予定である。さらなる駅利用者の増加に合わせて、駅周辺を整備していくという。

これまで開発の手をすり抜けてきた「羽沢」という土地が、一つの商業化した地域に変化できるのか、これからの動向にも注目である。


参考文献

2018/08/15

浅草線はなぜ泉岳寺駅で分岐するのか




都営浅草線は押上駅から西馬込駅を35分で結ぶ地下鉄である。押上から山手線東側に沿うようにして南下し、泉岳寺駅付近で南西方向に進路を変えて西馬込方面へ伸びていく。泉岳寺駅は京急本線との直通運転の分岐点となっており、京急本線品川方面へ向かう電車と、浅草線本線を西馬込方面へ向かう電車がこの駅で交差する。

ある日ふと疑問に思ったのだ。「なぜ泉岳寺駅で分岐するのか」と。分岐するにしても品川駅で分岐したほうが何かと利便性が良さそうであるし、そもそも進行方向を変えてまで西馬込方面へ向かう必要があるのかと。

その謎を浅草線の歴史から考察してみると明確な理由は明らかにならなかったが、複合的な要因があって現在に至ることが分かった。

地下鉄の必要性を説いた男


こちらの路線図は大正9年(1920年)「東京市の交通機関に就て」(国立国会図書館デジタルコレクション)より抜粋したもの。右が北を指しており、中央に皇居がある。皇居の東側を南北に通るのが、東京地下鉄道株式会社によって「第一期工事路線」として提案された路線。浅草と南千住を起点として品川へ至る線形は、現在の浅草線と銀座線のルートを合わせたよう。この路線を提唱した早川徳次は、早稲田大学卒業後、南満州鉄道、内閣鉄道院(後の鉄道省)、東武鉄道で従事し、鉄道の将来に希望を見出した。大正3年(1914年)にはロンドンの鉄道事情を視察し、そこで市民の足として利用されている地下鉄の有用性を目の当たりにした。その経験を元に彼は都市を高速に移動する手段として地下鉄が早急に必要であることを説き、後に「地下鉄の父」と呼ばれることになる。

彼が提唱した「第一期工事路線」は、郊外の鉄道との接続を意識したものである。南端の品川駅(現・北品川駅、1904年開業)では京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)と接続。北端は2方向に分かれるが、浅草駅方面は第二期工事に延伸して京成電気軌道(現・京成電鉄)押上駅(1912年開業)に接続し、もう一方は南千住駅(1896年開業)で日本鉄道(現・JR)常磐線、東北線、少し離れた王子電気鉄道(現・都電荒川線)三ノ輪橋駅(1913年開業)とも連絡する計画である。
このときの計画は、複数路線を接続することにより、都市間を高速に移動することに主眼を置いていたことがわかる。
早川の東京軽便地下鉄道は第一期工事路線にあたる免許を大正8年(1919年)に取得している。
免許状
東京府東京市芝區高輪南町ヨリ同府同市浅草區公園廣小路ニ至ル(中略)地下鐵道ヲ敷設シ旅客運輸ノ業ヲ営ムコトヲ免許ス

東京市による都市計画

大正12年(1923年)9月1日、東京が未曾有の災害に襲われた。関東大震災である。
この出来事によりそれまで計画されていた地下鉄計画は一度白紙となったが、当時の東京市民の足であった市電も大きなダメージを負った事から、市内の交通手段の整備が早急に必要な状況となった。

都市に鉄道路線を計画するにあたって、複数路線をどのように交差させて路線を組み立てるかが重要になってくる。いくつかの案については後述するが、共通して言えるのはどれもが「都市輸送」ではなく「都市輸送」を意識したものであるということ。つまり路線のジャンクションを都市部に設け、そこから各方面へ向かう路線へ乗り継ぎ郊外へ向かえるようにする考え方である。これにより郊外に複雑な路線網を構築することなく、必要最小限の路線で効率の良い輸送を可能としている。

東京市はまずPetersen(ペーターゼン)式による交通網の構築を模索した。この方式は、都市部に碁盤の目のように路線を通すことで簡潔に路線を組み立てることができる一方、目的の路線までの乗り換えが多くなってしまう場合がある。日本では大阪地下鉄がこの方式といえる(参考:OsakaMetro|路線図)。

大正13年(1924年)の東京市出願路線は、このペターゼン式を念頭において計画された。現在の浅草線に相当する路線は北千住〜上野〜日本橋〜三田〜五反田〜平塚(品川区)を通る2号線として計画されていた。しかし、この東京駅を中心とした路線網を考えたとき不都合が生じてしまうことが想定された。それはどうしても皇居の下を通すような路線を構築しなくてはならないことである。そこで皇居を迂回しつつ、他の路線との乗り換えが1回で済ますことができるTurner(ターナー)式を採用することにした。
この経緯は、大正14年(1925年)1月31日の時事新報に記されている(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・時事新報 鉄道(20-51) 大正14年1月31日「地下鐵道案變更 關係者協議會でターナー式採用に決定」)。
大正十四年三月 内務省公示 東京都市計画高速度交通機関路線網
第一號路線 
省線五反田驛附近より芝公園、新橋驛、日本橋、上野、浅草を経て押上に至る
ただし、この路線の一部はすでに東京軽便地下鉄道が工事準備を進めていた路線と並行していたため、第一號路線の免許取得には至らなかった(同時に申請していた第二號〜第五號路線は免許取得)。しかし同時に、今後東京市が東京地下鉄道を買収して東京市の地下鉄網を統一すべしという見解が添えられた。これが後に都営地下鉄・営団地下鉄の共存へと繋がるのだが、その話はまた別の機会に。

東京軽便地下鉄道改め東京地下鉄道も、同年5月に三田二丁目から省線五反田を経由して池上に至る路線の免許を申請している。これは免許取得していた浅草〜品川間から分岐する形の路線となっており、こちらは昭和4年(1929年)に免許取得となった。


この路線図は昭和9年(1934年)段階の東京地下鉄道の免許線を表したもの。白丸で結ばれた黒線は東京市営電車(東京市電)の軌道を表しており、赤い破線が分岐しているのは札ノ辻停車場あたりになる。泉岳寺停車場はその一つ南にある白丸の箇所である。

度重なる修正と戦後の復興計画

ここからこの東京地下鉄道の計画線がどのような経緯を辿って現在に至るのか、ダイジェストで語る。

昭和2年(1927年)、東洋初の地下鉄が浅草〜上野間で開業した。後の東京メトロ銀座線の一部であるこの路線を開業したのは東京市ではなく早川の東京地下鉄道で、昭和9年(1934年)に浅草〜新橋間を開通させたところまでは計画通りであった。東京市が財政難などを理由に免許の一部を「東京高速鉄道」に譲渡したのだ。この会社は東京横浜鉄道(後の東京急行電鉄)の資本で設立されたものである。東京高速鉄道による路線開通は進み、昭和14年(1939年)には渋谷〜新橋間が繋がった。
東京地下鉄道は当初より品川まで路線を延伸し、京浜電気鉄道と接続することを考えていたため新橋駅での東京高速鉄道との乗り入れに反発したが、結局新橋駅で相互乗り入れすることとなり、これが現在の東京メトロ銀座線の前身となった。
第二次世界大戦が始まると鉄道を取り巻く状況は一変し、昭和16年(1941年)に東京地下鉄道、東京高速鉄道は「帝都高速度交通営団」として統合された。これが後の東京メトロである。

戦後は地下鉄計画が状況に応じて頻繁に見直されていくこととなり、新橋以南の路線計画も幾度となく見直しを重ねていくこととなった。

戦後直後には政府に戦災復興院が設置され、昭和21年(1946年)には東京復興都市計画鉄道として5路線が告示された(戦災復興院告示第252号)。
1号線:武蔵小山ー五反田ー田町ー愛宕町ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー茅場町ー浅草橋ー上野広小路ー本郷三丁目ー巣鴨ー板橋1丁目
昭和31年(1956年)の都市交通審議会第1号答申「東京およびその周辺における都市交通に関する第一次答申」では下記ルートが提唱された。
第1次線:五反田ー三田ー御成門ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー築地ー茅場町ー浅草橋ー雷門ー吉野町二丁目ー南千住ー北千住 
またこの答申以降、それまで営団地下鉄主導で行われていた地下鉄計画に都営地下鉄が参画することとなった。
昭和37年(1962年)の都市交通審議会第6号答申では、人口の都市集中が問題として取り上げられ地上交通の混雑緩和としての意味合いが強い路線計画が提唱された。
1号線:品川ー泉岳寺ー田町ー新橋ー銀座東4丁目ー江戸橋1丁目ー人形町ー浅草橋ー駒形ー吾妻橋1丁目付近(押上)
6号線:西馬込ー五反田ー田町ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー大和町ー上板橋ー志村
この計画では1号線を品川方面、6号線を五反田方面へ延ばす計画であったが、昭和43年(1968年)の都市交通審議会第10号答申では、
1号線:西馬込・品川ー田町ー新橋ー浅草橋ー浅草ー押上
6号線:桐ケ谷ー五反田ー三田ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー板橋ー大和町
と改められた。1号線は現在の浅草線の線形とほぼ一致している。同年に都営1号線大門駅〜泉岳寺間が開業すると同時に、京急線と相互直通運転を実施。2018年で50周年を迎えた。
なお6号線(後の都営三田線)は桐ケ谷駅で東急池上線と直通運転する計画であったが、計画は中止され五反田ではなく目黒方面へ延伸し、目黒駅で東急目黒線と直通運転を果たすこととなった。

まとめ

都営浅草線が泉岳寺で分岐する理由として、当方では下記2点を理由として述べることにする。

①都市計画の観点から、郊外と都心を結ぶ路線が必要であったため。
 押上・品川間を南北に縦断するのではなく、当時都市開発が進んでいた山の手の外側・五反田以西にも路線を延ばす必要があった。

②私鉄各社との相互直通運転を行うことで、都心部の路線網が複雑になることを防ぐため。
 押上で京成電鉄、品川で京急電鉄と相互乗り入れし、東急電鉄との乗り入れ計画は破綻してしまったが、五反田では東急池上線に乗り換えができる。

実は現在、成田空港と羽田空港を短時間で結ぶための「都心線」構想が浮上している。押上〜新東京駅(現在の大手町駅近く)〜泉岳寺間を大深度で結ぶことで、空港利用者の利便性を高めようというわけである(参考:「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」)。
この計画を受けてというわけではないが、泉岳寺駅の改修計画も進んでいる(参考:「都市高速鉄道第1号線(都営浅草線・京浜急行本線)泉岳寺駅の改良計画について」)。さらに山手線の新駅も泉岳寺駅近くに開業することになりそうであったり、泉岳寺駅を取り巻く環境は変化しつつある。

これまで単なる乗換駅であったこの駅が、今後どのような変貌を見せるのか期待したいところである。

都営浅草線年表

1960年11月 都営地下鉄線として押上〜浅草橋間開業。京成線と直通運転を開始。
1962年5月 浅草橋〜東日本橋間開業。
1962年9月 東日本橋〜人形町間開業。
1963年2月 人形町〜東銀座間開業。
1963年12月 東銀座〜新橋間開業。
1964年10月 新橋〜大門間開業。
1968年6月 大門〜泉岳寺間開業。京急線と直通運転を開始。
1968年11月 泉岳寺〜西馬込間開業。
1978年7月 都営地下鉄1号線を浅草線に改称。

2016/02/27

大江戸線の「厩橋越え」の謎は諸説あり



都営地下鉄大江戸線は2000年に開通した比較的新しい路線。
都内で一番深いところを走る路線としても有名だが、この路線には様々な「謎」があり、半ば都市伝説化しているものもある。
その中の一つが、地図などを見たときに気になる人も多い、蔵前駅と両国駅の間にある謎の「分岐」であろう。
上下線が厩橋の直下を避けるように迂回して隅田川を越えるのである。

厩橋は昭和4年竣工の3径間下路式タイドアーチ橋である。
隅田川西岸にあった浅草御米蔵の北側に厩が併設されていたことから、一帯の隅田川沿いは「御厩河岸」と呼ばれており、元禄3年(1690年)には「御厩(河岸)の渡し」が認められた。明治5年(1872年)に渡しで転覆事故が起こると利用者が激減し、明治7年(1874年)に廃止された。その代わりに架橋されたのが(旧)厩橋である。

さて本題に戻ろう。
調べてみたところ大江戸線厩橋の謎は、既にいくつかの説が浮上しているようである。
代表的なものは以下の2つ。

1.橋を爆撃された際に、地下鉄が影響を受けないようにするため。

若干オカルト臭がする話。
「橋」は交通の要所であることから、戦時中は爆撃対象となるという。実際の東京大空襲では隅田川に架かる橋への攻撃は無かったが、もし爆撃された場合、崩れ落ちた鉄骨で川底がダメージを受ける可能性がある。
そのような場合に橋の直下に地下鉄を建設していると被害を受ける可能性があるため、それを避ける目的で大江戸線は厩橋を迂回しているというのである。

この議論の延長には、大江戸線のトンネルが戦前から存在し、その耐用年数が限界に来ていたため大江戸線開通の名目でトンネル補強を行ったという話があるが…。
あんまり触れないでおこう。

2.橋台に影響を与えないようにするため。

厩橋には他の橋と同様に立派な「橋台」と「橋脚」が備わっている。橋台・橋脚の地下にはそれらを支える「基礎」が設置されているはずである。地下にトンネルを掘ろうものなら、地下に埋まったこの障害物をどうしても避けなければならない。

隅田川を地下で行き来する路線は大江戸線以外にも多数存在するが、東西線以外は橋の直下に路線が存在しない。そもそも橋の両端を通るようにルートが設定されていないのだ。
ちなみに東西線は永代橋直下に路線があるが、永代橋は杭を使う工法ではない(ニューマチックケーソン工法)ため、橋と地下鉄を並列にすることが可能なようである。

本来であれば計画の段階で厩橋の両端を通るようなルート設定は避けるはずだが、隅田川西岸には国道6号直下を都営地下鉄浅草線が通っていることもあり、うまいこと橋を避けて川を越えるルートが設定できなかったようだ。

厩橋西岸付近の水深は3.7m[参考1]。
厩橋東岸付近の水深は3.9m[参考1]。
蔵前駅の深さは17.9m[参考2]。
大江戸線のトンネル外径は5.3mなので、杭基礎が川底から十数mもあれば地下鉄のトンネルに到達するしそうである。

(参考1:日本財団図書館(電子図書館) 船舶の河川航行に関する調査研究報告書
(参考2:蔵前 | 東京都交通局


2014/06/13

牛田と関屋は近くて遠い -東武と京成の殴り合い-


墨田区を根城とする私にとって、東武伊勢崎線(とうきょうスカイツリーライン)は主要な交通手段の一つである。
とはいえ、伊勢崎線のみを利用して移動するとなると、目的地は北千住くらいに限られてしまう。そんなとき地味に役に立つのが、北千住の一つ手前「牛田駅」である。
牛田駅に何かランドマークがあるという訳ではない。強いて言うなら「京成関屋駅」というランドマークがあるくらいである。そしてこの関屋駅と牛田駅が徒歩1分で乗り換え可能という好立地に位置しているのである。
京成本線を利用すれば、西に向かえば日暮里・上野の山の手東サイドに出れるし、東の市川・船橋といった千葉の主要エリアに向かう際にも便利である。

先日、牛田駅を利用した際に関屋駅との乗り換えが快適すぎて、ふと疑問に思ったのである。なぜこんなにも近接した場所に2つの駅が設置されたのだろうかと。そして、何故異なる駅名を冠しているのかと。

どうやらかつての東武vs京成の鉄道操業権をめぐった争いの名残のようだ。

東京・私鉄ブームの先駆け

1897年(明治30年)に創業した東武鉄道の最初の路線として、東武伊勢崎線は1899年(明治32年)に北千住−久喜間を開業した。創業時の路線計画では、東京市本所区から下千住(現:北千住)を経由し栃木県足利市までを結ぶ区間を想定していた。
もちろん全路線を一気に敷設という訳にはいかないので、徐々に路線を拡大していくこととなる。
1902年(明治35年)には、吾妻橋(現とうきょうスカイツリー駅)−北千住間が開通し、当初予定していた本所を起点とした路線が実現した。

一方その頃、成田山新勝寺への参拝客の鉄道輸送化を目指し、東京市本所区押上から千葉県印旛郡成田町までの区間を計画した京成電気軌道株式会社が1909年(明治42年)に設立された。1912年(明治45年)には押上−市川(現江戸川駅付近)と曲金(現高砂)−柴又間を開業した。

それぞれ本所を起点に東武鉄道は日光方面を、京成電気軌道は成田方面を、参拝客輸送を柱に延伸していく。


上図は1919年「東京首部 二万五千分之一地形図 東京近傍7号」から現牛田駅・京成関屋駅付近を臨んだものである。現在伊勢崎線は、北千住−牛田−堀切−鐘ヶ淵−…と駅が設置されているが、当時は牛田駅・堀切駅は存在しなかった。そしてこの地に京成の手は及んでいなかった。

浅草をめぐる攻防

東武鉄道の東京側ターミナル駅は、1910年に駅名を業平橋から改称し、浅草駅となった。浅草駅とは言うものの、浅草の中心地である雷門は隅田川を挟んで対岸に位置し、距離も多くあった。東京の中心部への乗り入れを果たしたい東武鉄道は、どうにか浅草の中心地、あわよくば上野まで延伸しようと計画を立て、路線計画を申請していた。
1924年(大正13年)には、浅草雷門駅(現浅草駅)までの路線延伸の認可が降り、隅田川を越える路線敷設に着工した。ところが工事の進捗は順調とは言えなかった。やはり隅田川という大物を越えるとなると一筋縄ではいかない。さらに浅草雷門駅の設計に変更があり、工期は長期化していくこととなる。

一方その頃、京成電気鉄道は焦っていた。
京成の東京側ターミナルは、当時の浅草駅からほど近い押上駅であった。とはいえ、都心へは市電乗り換えが必須という不便さ故、京成もまた浅草・上野方面への延伸を申請していた。
6度目の出願の際に発覚したのは、京成の出願を有利に進めるために、16万円(現在価値で約3,000万円)が東京市議会や衆議院などに渡っていたということであった。
1928年(昭和3年)、この「京成電車疑獄事件」の発覚により、社会的批判を受けた京成は浅草への乗り入れを断念することとなった。

都心乗り入れにはまだまだドラマが

京成が事件を起すのと時を同じくして、1928年(昭和3年)、「筑波高速度電気鉄道」が日暮里から流山を経由し筑波山まで至る免許を取得した。実はこの会社、免許を取得したものの実際に施行する予算を持ち合わせておらず、免許の売却により利益を得ることを目的としたものであった。
どの会社に売却を持ちかけようかと考えたとき、すぐさま東武・京成の名が浮上し、実際に話が持ちかけられた。しかし、東武はこの話をあまり旨味がないとし、保留状態にした。一方、京成にとって都心進出の足がけにもってこいの話であるが、当時京成が所持していた路線との兼ね合いが問題になった。


上図は1931年(昭和6年)発行の「最新番地入東京郊外地圖」より、上野・日暮里と路線の位置関係がわかる部分を臨んだものである。東武・京成は赤線で示され、浅草駅から伸びる東武と押上駅から伸びる京成が、隅田川東岸で凌ぎを削りあっている様が見て取れる。
京成の都心延伸の基点の一つである押上からの延伸は、先の事件によって実現が難しくなっている。二つ目の基点が1928年(昭和3年)に向島から分岐した白鬚線である。向島から白鬚に伸びる路線をそのまま北西にのばしていくと、新たな赤線の軌道に接続されるのがわかる。三輪を起点としたこの路線は「王子電気軌道」である。

先の事件により浅草ルートを断たれた京成は、王子電気軌道との直通により都心乗り入れを果たそうとしていたのである。しかし、白鬚まで支線を伸ばしたものの、接続したところで実質的な都心には直接乗り入れ出来ないため、計画の是非が問われていた。

筑波高速度電気鉄道は、路線の利便性を考慮し、最終的に停車駅を、上野−動物園前−日暮里−三河島−千住−西新井−八幡−…と変更し、最終決定とした。何とかこの路線を手に入れたい京成であったが、現行の京成の路線から離れているのが気にかかった。
そこで京成は、立石−高砂間に新駅を設け、この新駅と千住間を支線とするルートを考案。この支線の建設を条件に、京成は筑波高速度電気鉄道を吸収合併を打診し、実現することとなった。

都心乗り入れのため、まず日暮里と新駅である青砥駅を結ぶ路線の開通を急ピッチで進めていった。ほとんどの工事は筑波高速度電気鉄道名義で行われ、新線開通の1年前、1930年(昭和5年)に京成が吸収合併を果たした。

東武が免許権の取得にあまり積極的に動かなかったのは、当時の私鉄のパワーバランス的に合併先は東武以外にないだろうと考えていたためと言われている。後々筑波高速度電気鉄道を買収する画策だった東武は、京成の合併にひどく激昂したようだ。

東武鉄道は1931年(昭和6年)5月25日に、業平橋−浅草雷門間を開通させる。
しかし、遅れることわずか半年足らず、京成は同年12月19日に青砥−日暮里間を開通させるのである。このとき設置された駅の一つが「関屋駅」である。

左図は1934年(昭和9年)発行「新興大東京市制全圖」。京成関屋駅が東武伊勢崎線の堀切−中千住間のなんとも丁度いい位置に座している。堀切・中千住駅にプレッシャーを効かせる絶好の位置である。
千住町大字関屋町と大字曙町の中間の位置にあることと、かつてこの地が「関屋の里」として知られる景勝地であったことが駅名の由来とされる。


そして左図は1939年(昭和14年)発行「大東京新地圖索引式ハンディ版」からほぼ同じ場所を見たものである。
関屋駅の設置の翌年9月1日、東武伊勢崎線「牛田駅」が開業した。
かつて江戸期に牛田村があった地であり、その名残が千住町字牛田として残されていたところを駅名に採用したのであろう。
これまた関屋へのプレッシャーが尋常でない。名称をあえて異なるものにしたのも、明確な差別化とライバル心に由来するといってもいいだろう。

時代の流れとともに私鉄競争も冷えてきた。東武・京成もJRには敵わない。同じエリアを走る私鉄同士、協調姿勢を採らなくてはやっていけなくなってきた。
私鉄バトルの象徴であった牛田・京成関屋も相互連絡運輸を行っている。
ではいっそのこと、駅名を統一してしまうのはどうか。
平成23年に足立区が実施したパブリックコメントでも、「京成関屋・牛田駅の一本化」が要望として寄せられていた。しかし、対する区の回答は「現状では困難な状況」とのこと。
参考:足立区総合交通計画(案)パブリックコメント実施状況および意見に対する区の考え方について(PDF)

時代は流れたとはいえ、根底にある憎しみにも近いライバル心はなかなか拭えないのだろうか。二つの駅は手を差し伸べ合いながらも、横目で睨みを効かせあっている。