気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2019/11/28

【歩き旅】水戸街道 Day6 その④ 〜そして梅を観る〜



水戸市に入ってすぐに、国道を離れ旧道へ。ここまで旅を共にしてきた国道6号とはここで今生(?)の別れとなる。さらばロッコク、フォーエバー。
吉澤の集落にある熱田神社に立ち寄る。文禄4年(1595年)、この後訪れる吉田神社の分霊を奉納したことに始まったという。


米沢町入口のバス停近くに、有縁無縁供養塔が置かれている。明治25年(1892年)に建てられたもので、髭題目が刻まれているとことから日蓮宗の供養塔であることがわかる。


吉澤の隣の集落は「一里塚」の字を持つ。その名の通り、この場所には水戸街道が整備された際に設けられた一里塚があった。現在は道の片側にしかないが、樹齢100年程の榎が植えられており、僅かながらに往時の雰囲気を知ることができる。


一里塚の脇には庚申塚碑と馬頭観世音碑。


さらに一里塚の一角には如意輪観音や地蔵が集められていた。


JA東水戸ホールの向かい側にしっかりサイズの道祖神が鎮座している。かつては屋根付きの祠があったようで、石の両脇の凹みが名残である。


国道50号を横切ったところに金山稲荷神社がある。この先の吉田神社の兼務社となっているようで、御朱印もそちらでもらえるようだ。
街道はこの先三叉路になっており、さらにその先で枡形状のクランクとなっている。


消防団の敷地を囲うフェンスの内側に吉田村道路元標があった。
吉田村は昭和30年(1955年)に水戸市に編入するまで存続していた村。その歴史は古く、飛鳥時代頃には「那賀郡吉田郷」として存在していたと考えられている。
現在では水戸市元吉田町として字名に残っているが、この「元」は水戸市に編入した際に既にあった水戸市吉田町と区別するために付けられたという。


県道235号を右に折れ、しばらく進むと元吉田東交差点の近くに茅葺の家がある。こちらは江戸末期に建てられた綿引家住宅。綿引家は旧吉田村で庄屋や村役を歴任しており、土間が狭く移住空間が広く作られているという特徴がある。



再び街道はクランク状に折れ曲り、その先に薬王院の参道入り口の案内がある。
薬王院は平安初期の創建とされ、常陸国三宮の吉田社(吉田神社)の神宮寺として国家安全の祈願所として機能していた。
当時の豪族、常陸大掾氏にも保護を受けていたが、室町時代に大掾氏の勢力は石岡まで後退し、代わりにこの地を支配していた江戸氏の外護を受けた。しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐により水戸一帯は佐竹氏に支配されることとなった。この際に、佐竹氏の地元・常陸太田にある一乗院を薬王院に移し、薬王院は天台宗から真言宗に宗派代えしている。
江戸時代になり、水戸は徳川光圀の支配下となった。光圀の信仰は篤く、貞享5年(1688年)には本堂を再建、元禄2年(1689年)には、関東八檀林の一つに認定している。現在では本堂が国指定重要文化財に指定されている。


沼田米殻店の隣に「神楽屋敷跡」碑があり、この場所で水戸大神楽が発祥したという。いわゆる神前で歌や舞を披露する「神楽」であるが、獅子舞などの演舞を各地を回りながら披露する「大神楽」が儀式ではなく舞台演劇として発展したものの一つが水戸大神楽で、伊勢・江戸と並び三大流派の一つであった。水戸藩の記録では、宝暦2年(1752年)に水戸御免の祭礼において神楽獅子を奉納している。
かつては獅子舞による演舞が主流であったが時代と共に現代化が進み、明治以降はジャグリング・皿回しなどの大道芸や漫才などを披露するようになった。番傘の上でいろんなものを回す芸でおなじみの「お染ブラザーズ(海老一染之助・染太郎)」も大神楽の曲芸師である。


五差路を右斜め前方向に進み、坂を下ると左手に小山が見えてくる。これは常陸国三ノ宮の吉田神社である。詳細な創建は不明だが、建久4年(1193年)には後鳥羽上皇が社殿を改修している。日本武尊が東征の際に休息した地と伝わり、祭神として祀っていることから、朝廷の崇拝が篤かったようだ。
今では地元の子供達の格好の遊び場となっており、本殿前や参道の階段など至る所で数人のグループが集まってそれぞれの遊びを繰り広げていた。


石碑に刻まれた「金」の字が不思議な金刀比羅神社があった。(この「金」の字は、「金」を隷書体で表したもののようだ。)創建年代は不明だが、明和3年(1766年)の下市の火災により社殿が消失。その後再建され現在に至っている。
かつてはこの神社の隣あたりに昭和13年(1938年)に廃線になった水戸電気鉄道の紺屋町駅があったというが、線路も駅も跡形もなかった。


備前堀と呼ばれる水路が見えてくる。慶長14年(1609年)に水戸に入城した徳川頼房が、翌年の慶長15年(1610年)に水戸城の西にある千波湖の治水と農業用水の確保のため、当時の関東郡代であった伊奈忠次に命じて掘らせたものである。忠次が備前守であったため、備前堀と呼ばれるようになった。銷魂橋の隣の道明橋上に、伊奈忠次の銅像が置かれている。


備前堀にかかる銷魂橋(たまげばし)に到着。かつては橋のたもとに高札場が設けられていた。
元は七軒町橋と呼ばれていたが、徳川光圀によって「銷魂橋」と名付けられた。普通、「たまげ」は「魂消」と書き、魂が消えるほどびっくりすることを「魂消る」と言う。光圀が何故この名前を付けたのかは定かでないが、「魂が消えるほど悲しい別れ」が生まれる場所という意味でこの名前をつけたという説がある。水戸城下と郊外を隔てるこの橋で、人々が別れを惜しむ姿を見て、心に来るものがあったのだろうか。


そしてこの橋が江戸街道の起点、つまり水戸街道の終点となる。
今回の水戸街道歩きは銷魂橋を終着地としても良いのだが、もう少し進んでみよう。


備前堀を越えると水戸城の城下町エリアとなる。本町に小さいながら綺麗な稲荷神社があった。この神社は能化稲荷神社といい、徳川光圀ゆかりの神社だという。
光圀が母・久昌院の菩提に伴い、常陸太田に久昌寺を創立した際、住職として京都より日乗上人を招いた。上人がこの地で滞在した際にお告げがあったため、ここに宇迦之御魂命を移し、祀ったことにより出来た神社である。


水戸城下は台地部の「上市」と湿地帯を埋め立てて築いた「下市」に分かれていた。本町を東西に横断する「ハミングロード513」は当時の下市の中心となる通りであった。
ちなみに「513」は商店街の全長513mを表している。


商店街はがかつての宿場であった証として、江戸(水戸)街道宿場の碑が置かれている。


ハミングロード513の東端に、「旧本四丁目 陸前浜街道起点」の碑がある。明治5年(1872年)に名称が定められる以前から、水戸より以北は岩城相馬街道などと呼ばれていた。この街道と街道の起点をもって、水戸街道を完歩としたい。


街道歩きは終わったが、バスに乗り込み移動する。
この季節に水戸に来たのだから偕楽園に寄らない手はない。ライトに照らされた梅を眺めつつ、足の痛みと共に今回の旅の達成感を味わった。

2019/11/15

【歩き旅】水戸街道 Day6 その③ 〜茨城最強の城址、そして水戸へ〜



小幡城に立ち寄るために、街道を外れる。聖徳大神と刻まれた石碑、二十三夜塔などが立ち並ぶ場所が分岐点の目印となる。一番左の明治11年(1878年)建立の聖徳大神は道標も兼ねており、「右 磯濱五里 湊六里」「左 下市三里 勿来二十二里 長岡一里二十一丁」と刻まれているという。磯濱(大洗町)、湊(ひたちなか市)は太平洋沿いの村。下市は水戸市街の下町エリアを指す。勿来(福島県いわき市)は陸前浜街道の関所である勿来関を指す。


関東自動車道をまたいだ先にある森のような場所が小幡城。室町時代もしくは鎌倉時代あたりの築城といわれ、府中城主の大掾貞国や大掾清幹の領地であったと推定されている。
天文元年(1532年)、水戸城主・江戸通泰が小幡義清を大洗で殺害し、江戸氏所有の城となったとされる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、常陸国を知行として安堵するよう任された太田城の佐竹義宣により水戸城の江戸氏が滅ぼされ、その際に小幡城も落城した。慶長7年(1602年)に佐竹氏が秋田に移封されるまで小幡は佐竹氏の直轄地であった。


空堀は堀底道と呼ばれ、深さのある堀が複雑に絡み合っていて、これが小幡城が茨城最強の城郭跡と評価される所以である。土塁と空堀がほぼ当時のまま残っている貴重な城址で、実際の攻城さながらの雰囲気を味わいながら本丸へ向かうことができる。
この日は城址の整備工事を行なっており、伐採や看板の設置などをボランティアと思われる人たちと行なっている最中にお邪魔してしまった。その代わり、今後は綺麗に整備された姿で城郭を楽しむことができるようになるかもしれない。


再び街道に戻り、再び国道6号に沿って進む。かつてこのあたりには桜の巨木があり、水戸光圀が「美しさは千貫の価値がある」と評したことから千貫桜と呼ばれていた。千貫は250両に相当するが、要するに非常に高価なものと同等の価値があるということだ。
光圀の死後、桜は枯れてしまったが、徳川斉昭が光圀を偲んで、ヤマザクラの並木を植樹している。
その並木も枯れ、現在の桜並木は昭和40年頃に植樹されたものである。明治31年(1898年)に建てられた「千貫櫻碑」の揮毫は徳川篤敬(水戸徳川家第12代当主)によるもの。


隣の「千貫桜歌碑」は平成14年(2002年)建立で、小野春江氏によるもの。


小幡の集落を抜け、右手に見えるのが小幡北山埴輪作成遺跡。埴輪の作成場跡地としては日本最大のもので、国指定史跡となっている。
昭和28年(1953年)の開墾時に大量の埴輪が発見され存在が知られるようになったが、その後は詳細な調査を行わないままとなっていた。昭和62年(1987年)に少し離れた場所で偶然埴輪が出土し、想定よりも広いエリアに及ぶことから3期に渡る本格的な調査を行った。その結果、遺跡は8ヘクタールもの広さに及び、埴輪窯59基、工房跡8軒、年度採掘抗2箇所などが発見され、埴輪窯の数は国内最多の規模である。6世紀中頃から7世紀前半の遺跡と考えられ、現在では見学用の通路が整備されている。


県信奥谷グラウンド前あたりから国道沿いの脇道を歩く。墓地の前には昭和35年(1960年)銘の交通安全地蔵が鎮座していた。備えられている花は真新しい。


地蔵の先の交差点で国道6号沿いの道からぐっと離れ、旧奥谷村の村域に入る。奥谷坂上交差点から南に伸びる道は、秋葉、紅葉を経由し、倉数で堅倉から延方に向かう道と合流する古道である。
村域の入り口に御霊神社がある。由緒はよくわからないが、万治年間(1658〜1661年)に改修を行い、現在に至っている。


涸沼川を高橋で渡り、小鶴交差点で旧道へと入ると、間の宿としても機能していた小鶴の集落となる。
一際目を惹くレトロな外観の建物は、駄菓子・雑貨を扱う「こどもや」。開業は昭和30年代で、建物は昭和初期のものだという。残念なことに、2019年の8月末で閉店となってしまった。


如意輪寺に立ち寄る。永享年間に中興されたと伝わり、寛文年間に移転するまでは西に1km離れた場所に位置していたという。
本尊の如意輪観音は元禄3年(1690年)に徳川光圀により寄進されたと伝わり、小鶴を水戸藩の入り口として重要視していたことが推察される。


長岡橋で涸沼前川を渡り、水戸街道最後の宿場となる長岡宿に入る。ここから水戸城下まで10kmも無いが、本陣・脇本陣・問屋が置かれたフル武装の宿場であった。
宿場の中心には高岡神社が鎮座していた。長徳元年(995年)に酒列磯前神社より分祀し創建したもの。かつては神宮寺を持っており、後に正法寺として分離するが、現在では廃寺となっている。


庄屋を営み、脇本陣・問屋も務めた木村家住宅が残されている。母屋は安政4年(1857年)の大火後に再建されたもので、茅葺屋根が残っている。平成に入り、本格的な保存修理がなされたため、見た目はかなり綺麗な状態である。


みくらやという衣料品店がある場所が、本陣跡もしくは旅籠「中夷」の跡地と言われている。


長岡宿を抜けてしばらくすると、道端に馬頭観音碑が2基置かれていた。左の新しい方は昭和10年(1935年)の銘が入っている。


北関東自動車道の茨城町東ICを越え、この旅最後の市町村・水戸市へのアタックを開始する。